門司城〔門司関山城・亀城〕(北九州市門司区)
大友、大内、毛利氏の争奪の舞台になった門司城
2007年10月20日
門司城は、平知盛が源氏との合戦にそなえて、長門国目代紀井通資に築城させたといわれています。
寛元2(1244)年、下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、鎌倉幕府より豊前国代官職に任じられて下向しました。
後に、門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領し、親房の子孫は地名により門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の五支城を構えてそれぞれ一族が配置されました。
門司氏はその後およそ350年にわたって北九州の地に続きました。
その間、南北朝時代には門司氏も両派に分かれ、当城には北朝武家方の吉志系門司左近将監親尚が拠り、一方南朝宮方の伊川系門司若狭守親頼は猿喰城に籠もり、骨肉の争いもありました。
室松時代末になると、門司半島は豊後大友氏と大内氏、大内氏滅亡後はかわって毛利氏が争奪するところとなり、当城はその渦中に置かれました。
ことに大友・毛利両氏による永禄の門司城合戦は壮絶を極めました。
その後の門司城は、城主も入れかわりながら続いたが、細川忠興の豊前入国後の元和元(1615)年、一国一城の令により、およそ400年におよぶその歴史を閉じました。
和布刈公園山頂に、門司氏の子孫により石碑が建てられています。ここからは、関門橋が見渡せ、関門海峡の眺望が素晴らしいです。
Photo Canon EOS 30D
H19.9.8
住所: 福岡県北九州市門司区門司
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