備中松山城〔大松山城〕(高梁市)
備中松山城はもともと臥牛山の最北端に主郭部がありました。三村氏滅亡後、南側からの攻撃に備えて毛利氏が主郭部を現在の場所に移しました。かつての主郭部を大松山城、現在に至る主郭部を小松山城と呼んで区別しています。
備中松山城は、相模三浦氏の一族の秋庭三郎重信が承久の乱の軍功で有漢郷の地頭となり、延応2(1240)年に有漢郷の地頭である大松山に砦を築いたのが始まりです。
その後、鎌倉時代末から南北朝時代にかけて、高橋宗康、高師秀(師直の兄)と城主が変りましたが、その後、秋庭重明が城主となり、永正6(1509)年まで秋葉氏が居城としていました。その間、城の規模も小松山(現在備中松山城がある山)まで拡張されました。
その後室町時代には、上野頼久、庄為資が城主となり、戦国時代は三村氏の居城でした。
大松山城は、備中松山城(小松山城)本丸の北側の番所跡の裏側にある水の手門跡から遊歩道があり、20分程度で着くことができます。他にも東側の林道(市道)から歩いて大松山吊り橋を渡りアクセスすることもできるようです。
途中の天神丸跡は臥牛山の標高が一番高いところにあり、三村氏の最後の戦いとなった天正3(1575)年には天神丸を部下の裏切りにより奪われたことが敗戦の時期を早めたといわれています。
石垣があちこちに点在しており、遺構も探すといろいろありそうです。主郭部近くの大池付近には天然記念物の野生の猿をたくさん見ることができます。
城の見学の際にはそっと見守ることにしましょう。
Photo Canon PowerShot G9
H19.11.23
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