鶴首城〔成羽城〕(高梁市・旧成羽町)
三村氏が一時居城とした鶴首城〔成羽城〕
2007年12月02日
鶴首城〔成羽城〕は、文治5(1189)年、奥州平定に功績のあった河村四郎秀清が築城したと伝えられています。
戦国時代の天文2(1533)年、星田を本拠としていた備中の戦国大名、三村家親が、城郭を整備拡張しました。拠点を鶴首城に移した家親は、備中一円に勢力を拡大しました。
永禄4(1561)年三村家親、元親父子は、本拠を備中松山城に移しました。鶴首城には一族の三村親成、親宣父子が城主として配しました。
永禄9(1566)年宇喜多直家によって三村家親が暗殺されると、備中兵乱が激化しました。三村元親は明禅寺合戦で宇喜多氏との戦いに敗れました。その後毛利氏の支援を仰ぎましたが、天正2(1574)年、毛利氏が宇喜多直家と同盟を結んだため、元親は毛利氏の傘下から脱し、織田信長と同盟を結び、毛利氏と戦いました。親成、親宣父子は三村一族から離反して、毛利氏に味方したため、鶴首城主には三村親重が城主となりました。
天正3(1575)年、鶴首城は毛利氏により攻略され落城しました。備中松山城も落城し、三村元親は松連寺で切腹し、戦国大名としての三村氏は滅びました。
鶴首城は毛利氏の元、再び三村親成、親宣父子が城主となりました。
慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの功績により成羽の地で七千石を得た岡家俊が入城しました。しかし、慶長19(1614)年大坂の陣で家俊の長男岡平内が大坂方に味方したため、大坂落城後、家俊は切腹させられました。
元和3(1617)年、成羽に移封された山崎家治が入部しましたが、鶴首山麓に御殿を築いたため、鶴首城は廃城となりました。
成羽陣屋〔山崎氏御殿〕のある成羽美術館の南側の道を西側に上っていくと、公園があります。ここに登城口があります。一ノ壇(本丸)までは20~30分程度かかります。「鶴首城址へ登ろう会」が途上ルートを整備したようで、比較的歩きやすいです。
主郭部には案内看板がありました。
Photo Canon PowerShot G9
H19.11.23
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