信州柴阿弥陀堂跡・山本勘助〔道鬼〕の墓(長野市)
千曲川の河川敷にある山本勘助の墓
2008年01月06日

信州柴阿弥陀堂は、親鸞聖人(見真大師)真筆の「十字名号」を本尊として、文明年間(1469年~1486年)に吉池彦四郎重行(法名行西)によってこの地に開基されました。
永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いの後、武田信玄は武運長久を祈念していた当堂に陣小屋を寄進・改築し、冑中の守護仏「善光寺如来御分身仏」を奉安して両軍の戦死者を祀りました。それを聞いた上杉謙信は家臣を遣わして礼拝しました。当堂は歴代藩主に崇拝庇護され、安永8(1779)年には松代藩の援助により改築されました。全国各地から多くの人々が参詣に訪れ、地域の人々から「お柴様」と親しまれていました。
その後、昭和初期の千曲川築堤により移転を余儀なくされ、現在はこれより東方約300メートル、国道403号線沿いに移築されています。
かつての柴阿弥陀堂の境内にあったのが、山本勘助(道鬼)墓です。永禄4(1561)年9月10日の激戦において、信玄に勧めた「きつつきの戦法」を謙信に見破られ、武田軍は一時苦戦に陥り、勘助は責任を感じ奮戦の後、討死しました。勘助の墓は初め、この南、陣ヶ瀬の東、勘助塚にあったが、千曲川の流れにより荒廃していく姿を憂い、元文4(1739)年松代藩家老鎌原重栄・原正盛が、信玄ゆかりの信州柴阿弥陀堂に遺骨とともに移し、墓碑を建立しました。文化6(1809)年には孫の鎌原重賢が、末永く墓を守るために更に石積みし、今の姿となりました。
墓碑に刻まれている漢文の読み下し文が説明されていましたので、転記します。
(北面)
山本道鬼入道は三州牛久保の産也、壮年
武術を為し霜辛雪苦幾十年、既に四十四歳にして
武田玄君に仕う、君之を奇とし称えて軍師と為し且つ道鬼の号を賜ふ蓋し其の公の
機鋒日月の上に出て、無辺の心量天地の外を包む、
故に兵を用うれば権柄手にあり抑揚褒貶与奪殺活自在たり
時に臨んで天下計る能はず、就中戸石の合戦に摩利支天を称するを
見るもの天下皆人に知らる、焉んぞ痩くさん哉、然る後此の地、甲越一戦の
(東面)
時白刃交わり両軍蹙(ちかず)く玄君危急の秋能く
危亡を顧みず単刀直入声江河を折河勢雷電を崩す是の故に越
軍丕に敗る、然れども君の為忠死せり、実に永禄四年辛酉秋
九月十日也、古墓今陣ヶ瀬東高畑中に在りて半ば有る無しなり
古詩に曰く古墓犁れて田と作る誠なるかな、是の言誰か見るに忍びんや、
爰に原正盛英士曾て武田軍の軍術を探り淵源に深徹す
其の徒鎌原帯刀重孝英士深く道鬼の武功に感じ
(南面)
新に石表を促さんと雖も不幸に短命にして卒す、其の孝子重栄英重
慈父の志を続け世財を抛って、石碑を造立し、地を柴村に移し
永く高名を仰ぐ、其の厚志至れり尽くせり、戯原、鎌原左祖に
依らずんば能く公の古墓の再改を観んや、三僧不才を愧じず之が為に
碑文並びに銘を賦して、後世に貽して曰く
嗚呼道鬼 武功忠義 古(いにしえ)又之を憶う
今複(また)是を想う
元文四年巳未年 朧月二日
寒松山僧補※叟誌
※は山に喬
Photo Canon PowerShot G9
H19.12.28
住所: 長野市松代町柴
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