吉見百穴(吉見町)
古墳時代後期の横穴式の集合墳墓・吉見百穴
2008年07月19日
吉見百穴は松山城近くにある古墳時代後期の横穴式の集合墳墓です。
「百穴」の名が文献にみられるのは今から200年位前で、江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ不思議な穴として興味をもたれていたといわれています。
「吉見百穴」が科学的に検討されだしたのは明治になってからで内外の著名な考古学者により調査が行われ横穴の性格をめぐってさまざまな意見が発表されました。
明治20(1887)年、坪井正五郎博士による大発掘が行われその結果人骨、玉類、金属器、土器等が掘り出され横穴の性格を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居であり、のちに墓穴として利用されたものであると断定されました。
しかし大正末期に入って考古学の発展により各地で横穴の発見発掘の結果、その出土品横穴の構造から横穴が古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として掘られたものであることが明らかにされ「住居説」がくつがえされることになりました。そして大正12(1923)年「吉見百穴」はわが国の代表的な横穴墓群として国の重要な文化財として史跡に指定されました。
戦時中横穴墓群のある岩山に地下工場建設が行われ、数十基の横穴が壊されました。中島飛行機株式会社(現在の富士重工)でも、大宮工場のエンジン製造部門の全施設をこの地下に移転することにしました。掘削は全国各地から集められた3000人から3500人といわれた朝鮮人労働者により昼夜を通した突貫工事として進められました。ダイナマイトを使用した人海戦術でした。トンネルは、幅4.0m、高さ2.2mの馬蹄型で、現在公開されているのは十分の一の広さにも及びません。
7月頃には完成した場所に工作機械が搬入され、大宮工場から転居した従業員や勤労動員学徒により、エンジンの部品が製造されましたが、本格的な生産活動に移る前に終戦となりました。
しかし、戦後吉見百穴保存会の結成により積極的な保存、管理がなされ、その後昭和38(1963)年吉見町に移管され「吉見百穴」は再び多くの人々に愛され、親しまれる史跡となりました。ヒカリゴケが自生している穴もあります。
見学料金 大人 200円、小人 100円
見学時間 8:30~17:00 年中無休
Photo Canon PowerShot G9
H20.7.12
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