石田堤(行田市)
石田三成の忍城水攻めの史跡・石田堤
2008年07月23日

天正17(1589)年11月、天下統一を目指す豊臣秀吉は、小田原城を本拠とする北条氏に宜戦布告し、関東の武力平定に乗り出しました。
秀吉は総勢24万とも言われる大軍を関東に派遣して、翌年4月には小田原城を包囲し、北条方の関東地方の諸城を攻め落として行きました。そして6月の初めに石田三成に、2万の軍勢を率いて北条氏に従う忍城を攻めるよう命じました。
三成の軍勢が忍城を攻めた時、忍城主成田氏長と弟の泰親は、将兵を率いて小田原城に入っていて、城代成田泰季らが忍城の守りに当たっていました。城内に周辺の領民が逃げ込み、城には雑兵・百姓・町人・女子供らも含めて総勢2700人余りが入っていたと後世の「忍城戦記」には記されています。また、6月7日には城代成田泰季が急死し、代わって息子の成田長親が城代になったと、やはり後世の「成田記」には記されています。
三成は6月初旬頃に布陣して丸墓山の上に立ち、その地形から忍城を取り囲むように堤を築いて利根川、荒川の水を引き込み、城を水攻めすることを決めたと伝えられています。しかしながら、実際には秀吉の強い意向で水攻めは行われたと推測されます。
秀吉は6月20日に三成に宛てた書状で、三成から送られた堤の絵図面の内容を承諾するとともに、水攻めを油断なく行うことを申し付けています。
また、途中から忍城攻めに加わった浅野長吉が、7月1日に皿尾口に攻め込み、忍城方の兵30余りを討ち取り、それを秀吉に報告した際にも季吉は、「それより水攻めをしっかりやるように」と指示しています。
さらに季吉は、7月6日に上杉景勝、前田利長らに、早々に忍城に向かい、堤を丈夫にするよう申しつけています。また、14・5日頃には岩付に向かっので、その際忍城を包囲している堤を見学するから、普請を油断なく行うようにとも命じています。
このように秀吉は忍城を水攻めすることに固執していたのです。長大な堤を築くことで、自らの権力を誇示したいと考えていたのかも知れません。
石田堤は、天正18年(1590)6月に石田三成率いる豊臣秀吉軍が城水攻めの際に築いた堤で、後世になって石田堤”と呼ばれるようになりました。
残念ながら現在堤は断片的に残るだけで、ここ行田市堤根の旧館林道沿いに残る282mが、埼玉県指定史跡に指定されています。また、忍川対岸の鴻巣市袋に残る300m程が鴻巣市指定史跡に指定されて、≈として備されています。それ以外にも行田市堤根地内ほかに点々と堤が残っていま石田堤の全体像については、大正2年(1913)に地元の郷土史家造実地踏査を行ない、地形や言い伝えから約14kmの堤を推定復デして清水の説以外に、全長を28kmとする説や、堤は長大だったが、元荒川の河川の自然堤防を利用して築堤工事が行われ、実際に秀吉軍が築いたのは4km程度だったとする説もあります。
石田堤については、行田市堤根と鴻巣市袋の計3地点で発掘調査が行われていますが、3地点それぞれで堤の構築状況が異なっており、地点ごとに地形に合わせた構築方法が採られていたものと推測されます。また、発掘調査では
2地点で堤の中から埴輪や土器などの破片が出土しており、三成はこの地域に点在していた古墳を取り崩し、その土などを利用して自然堤防を補強して繋ぎ、短期間で堤を築いていったと推測されます。一説には三成は堤をわずか5日間で築いたとも言われていますが、当時の記録から、忍城攻めが始まって約1ヶ月後の7月前半にも、堤の補強等が行われていたことが伺えます。突貫工事で築いた堤を、水攻めしながら補強していたようです。
このようにして築かれた堤に、荒川等から水を引き入れて忍城水攻めが行われたようですが、水攻めの最中にも忍城周辺で戦闘が行われた記録があることから、水攻めはさほど忍城に直接的なダメージを与えられなかったようです。それは地形的な要因から、引き入れた水が忍城付近ではなく、南側の堤根方面に溜まってしまったからではないかと考えられています。水攻めに耐えていた忍城も、小田原城開城後の7月14日に開城し、堤としての役割を終えた石田堤は、その後次第に取り崩されて姿を消して行きました。
それを憂いた幕末の堤根村の名主増田五左衛門は、慶応2(1866)年に石田堤の由緒を記した石田堤碑を建立し、堤を後世に残そうとしました。結果的に水攻めは、忍城に直接的なダメージを与えられず、「忍城戦記」「成田記」などの後世の軍記物では、失敗したとされています。対照的にこうした軍記物では、史実としては定かではない忍城方の奮戦が記されており、それが伝説となって、語り継がれて行きました。
近年、忍城水攻めがいくつかの小説で題材として取り上げられ、映画化もされたことから、石田堤と忍城水攻めに対する関心が高まっています。
その後地域で石田堤保存の活動が始まり、地元堤根自治会で「石田堤を守る会」が結成されて、現在堤の除草・清掃等の保存活動を行っています。
(現地説明板などより)
現在はこの堤根に約250mの堤を残すのみですが、江戸時代、日光裏街道として植えられた樹齢300余年の松や檜葉が並ぶ様子は往時を偲ばせます。
H20.7.12
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.8.2(写真差し替え)
住所: 埼玉県行田市堤根
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