鎌倉時代に塩田北条氏が居館を構え、戦国時代は村上、武田の攻防の舞台になった塩田城
2009年01月01日
塩田城は鎌倉時代中期の建治3(1277)年鎌倉幕府の連署であった北条義政がこの地に移り、館を構えたことに始まります。塩田北条氏は義政の子国時、その子俊時と三代にわたり約60年この地方を統治し、また幕府内部でも活躍しました。
元弘3(1333)年、北条氏の滅亡の際、塩田北条氏は「いざ鎌倉」と一族あげて支援にかけつけたが奮戦空しく幕府と共に滅亡しました。
室町時代から戦国時代には塩田城は村上氏の領有するところとなり、重臣福沢氏をここにおいて統治させました。しかし戦国時代の天文22(1553)年甲斐の武田信玄に攻められ落城しました。
信玄はこの塩田城の戦略上の重要性に注目し、飯富氏等の重臣を城代として東信濃の拠点としました。
天正10(1582)年武田氏が没落し、真田氏が上田城を築くまで約30年間この地方の軍政両面の拠点でした。
上田市では昭和50(1975)年から3年間にわたり塩田城の発掘調査を実施したが、その結果種々の貴重な遺構、遺物が発見されました。近くの観光施設「塩田の館」で一部の遺物が展示されています。
城跡は弘法山全域を城郭としていたようです。メインの居館部分は北条国時の墓のある付近のようです。一応弘法山頂まで登りましたが、道が荒れていてクライミング状態で登らなければなりませんでした。おまけに雪がつもっていました。また松茸シーズンの秋は入山禁止になっているようです。
Photo Canon PowerShot G9
H20.12.27
住所: 上田市前山