獅子吼城〔江草城〕(北杜市・旧須玉町〕
烽火台の役割も果たしていた獅子吼城
2009年01月07日
獅子吼城は別名を「江草城」といい、城山に築かれた中世の山城です。築城時期は不明ですが、鎌倉時代末の元応2(1320)年5月4日夜この城で信田小右衛門実正・小太郎実高、親子とその家来が討死した記録があります。
そして、応永年間(1394~1428年)武田信満の三男江草兵庫助信泰が居城したといわれています。武田信玄の時代には、烽火通信の中継地として重要な場所であった場所で、現在でも塩川上流の「大渡の烽火台」「比志城」「前の山の烽火台」さらに甲信国境の信州峠。また西方には「中尾城」「若神子城」「大豆生田砦」「能見城」「新府城」などまで遠望できます。
天正10(1582)年壬午3月、武田氏は織田信長の甲州攻めで滅亡を遂げ信長も6月に本能寺の変で明智光秀に殺されました。
甲斐国は小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となり(天正壬午の乱)、家康は韮崎の新府城に陣し、氏直は若神子に本陣を構え、大豆生田砦と獅子吼城にそれぞれ兵を配しました。徳川軍は9月の初旬、津金衆・小尾衆など武田の遺臣たちと服部半蔵ひきいる伊賀組とがこの城に夜襲をかけて落城させこの乱は徳川勢の優勢となり、獅子吼城の戦いは甲州における戦国時代最後の合戦となりました。
城跡は西側の根古屋神社から登るのが大手道と思われますが、車を活用して東側から登ると比高差を稼げ楽に登ることができます。
主郭部付近には平らな石を積み上げた石垣が残っています。
Photo Canon EOS 30D
H20.12.29
住所: 山梨県北杜市須玉町江草
関連リンク
タグ
地図
関連情報