長岡城(長岡市)
現在は遺構が完全に消滅している幻の城・長岡城
2009年05月24日

長岡城は蔵王堂城に代わる居城として堀直寄により築かれた城です。
戦国時代、長岡地域は古志長尾氏などが蔵王堂城を拠点としていましたが、慶長3(1598)年、上杉景勝が会津へ移封されると、越後の大部分は、堀秀治に与えられ、蔵王堂城には堀親良が入城しました。その後松平忠輝の支城となった後、堀直寄が入城することになりました。
しかし、蔵王堂城は信濃川のたびたびの洪水による被害を受け、維持することが困難ななため、元和2(1616)年に長岡城を築城しました。
しかし、元和4(1618)年、直寄は完成を見ないまま、越後村上へと転封となり、長岡には6万2千石(後に7万4千石)をもって、 徳川譜代の牧野忠成が封じられました。
牧野氏は、堀氏の築城工事を引き継ぎ、長岡城と、その城下町を完成させました。
慶応4(1868)年の戊辰戦争(北越戦争)で、新政府軍は会津藩を攻めるために、越後に攻め入りました。5月2日、長岡藩家老・河井継之助は小千谷で新政府軍と会談し、会津征伐中止を懇願したが受け入れられず北越戦争に突入することになりました。5月10日に戦火が開かれ、榎峠、朝日山などで長岡藩は西軍をよく防ぎましたが、増水した信濃川を越えて攻め入った西軍により19日には長岡城が落城しました。その後も戦いは一進一退を続けましたが、長岡藩は7月24日夕方から翌払暁にかけて八丁沖を越えて乾坤一擲の勝負を試みて、長岡城を奪取しましたが河井継之助は重傷を負って戦列を離れたこともあり、再度落城することになりました。落城後藩主忠訓は一族とともに会津へ逃れ、河井継之助は8月16日、南会津塩沢で亡くなりました。敗残兵は会津に奔って抗戦を続けましたが、 9月25日、新政府に降伏した。
戊辰戦争が終結すると、長岡藩は7万4千石の領地を2万4千石に削減されました。長岡城は戦火によって建物の大部分を失い、その後、 石垣や堀も埋め立てられ徹底的に破壊されました。
しばらく跡地は遊覧場として公園のような形で残っていたそうですが、鉄道敷設の際に長岡駅が建設されたため、遺構は全く存在しません。駅前に本丸跡を示す標柱(写真上・地図は関連情報URL)と、二ノ丸の城内稲荷神社など(写真下・地図はみんカラマップ)が残るのみです。
二ノ丸の城内稲荷神社の周辺では厚生会館が取り壊され、長岡市役所などが入居する長岡市シティホールプラザ アオーレ長岡が平成24(2012)年4月1日にオープンしました。
Photo Canon PowerShot G9
H21.5.4
住所: 新潟県長岡市大手通
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