本与板城(長岡市・旧与板町)
本与板城の築城時期、築城者は定かではありませんが、建武元(1334)年に新田氏一族の籠沢入道が築城したとも伝えられています。
南北朝期に入ると越後守護上杉氏の重臣飯沼氏が与板の地を治め、居城としていました。最初はこの城のことを「与板城」と言っていたそうです。
永正4(1507)年、越後守護代長尾為景と越後守護職上杉房能が争った「永正の乱」で、 飯沼氏は上杉氏に味方して長尾為景に攻められ滅亡しました。
その後は、長尾為景の家臣直江実網(後に直江景綱と改める。)がこの地を支配しました。
景綱は上杉謙信からの信頼が厚く、重臣として重きをなしていました。
そして、景綱の死後は、総社長尾氏から養子に迎えた信綱が直江氏を嗣ぎました。
謙信が亡くなった後の御館の乱では、本与板城主だった直江信綱は、上杉景勝に味方した。御館の乱は景勝が勝利したが、戦功を巡る家臣達の争いで直江信綱は殺されました。
信綱は実子がなく、直江家断絶を防ぐため、景勝は樋口兼豊の子・樋口与六(後の直江兼続)を直江家の跡継ぎとしました。
兼続はその後本与板城の南側に新たに与板城を築きました。このため、兼続の与板城と区別するため、この城を本与板城と呼ぶようになりました。本与板城もそのまま支城として使用されたといわれています。
慶長3(1598)年、景勝の会津若松城移封にともない、 兼続も30万石を与えられ、米沢城に入ったため本与板城も廃城になったと推定されます。
Photo Canon EOS 30D
H21.5.4
住所: 新潟県長岡市与板町本与板
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