高天神城(掛川市・旧大東町)
高天神城を制するものは遠州を制する・高天神城
2005年10月23日
高天神城は「高天神城を制するものは遠州を制する。」と云われた要衝の城です。武田信玄・勝頼と徳川家康がこの城の争奪戦を繰り広げたことで有名です。
典型的な山城です。
高天神城の築城時期は不明ですが、明応から文亀年間に、駿河の守護・今川氏が遠江の斯波氏への対抗のために築城したといわれています。
永禄11(1568)年、甲相駿三国同盟を破棄した武田信玄が駿河に乱入し、今川氏真を遠州掛川城に追うと、高天神城へは西から徳川家康が進出し占領し、今川方の属将であった小笠原長忠をそのまま城将としました。
元亀2(1571)年、信玄は遠江に侵攻し高天神城を攻めましたが、城の守りが堅いのを察し兵を引きました。
天正元(1573)年信玄が亡くなると、翌天正2(1574)年2月、武田勝頼は二万の大軍で高天神城を攻めました。小笠原長忠徳川家康に援軍を要請しましたが、家康も単独での軍事行動を無理と判断し、同盟国の織田信長に援軍を求めました。しかし、信長は援軍を出さなかったため、長忠は穴山信君の講和に応じて一ヵ月後に開城、長忠は武田に降り、大須賀康高らは家康を頼って浜松に落ち延びました。
翌天正2(1575)年長篠の戦いで武田軍が徳川・織田連合軍に大敗すると、家康は高天神奪還の行動を開始しました。
天正8(1580)年秋、城将・岡部元信は武田勝頼に援兵を求める密使を派遣しましたが、軍監・横田尹松は別便で勝頼に後詰を断りました。天正9(1581)年三月、援兵を断念した岡部元信は早暁に城門を開け放ち討って出ましたが戦死しました。勝頼に攻められ落城時に捕虜となった徳川氏の家臣・大河内源三郎正局がこの時七年ぶりに石牢から救出されています。 的場曲輪の後側には、「大河内政局の石牢」が残っています。
高天神城は落城後廃城になりました。
平成29(2017)年4月6日、続日本100名城(147番)に選定されました。
Photo KonicaMinolta Dimage A2
H17.5.4
住所: 静岡県掛川市上土方嶺向
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