横須賀城(掛川市:旧大須賀町)
大須賀康高が築城した横須賀城
2005年10月23日
横須賀城は、天正2(1574)年高天神城を武田勝頼に奪われた徳川家康が、大須賀康高に命じて天正6(1578)年に築かせた城です。
江戸期は有馬、大須賀、能見松平、井上、本多、西尾氏が城主でした。明治元(1868)年20代城主西尾忠篤は明治維新の激動のなか、安房国花房(現千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩領は徳川家達の領地となって静岡藩に含まれました。明治2(1869)年8月には横須賀城も廃城となりました。昭和46(1971)年には本丸一帯を宅地化する計画が持ち上がり、この城跡消滅の危機に住民から城跡保存の声が上がり、昭和56(1981)年5月8日付けで国史跡に指定されました。以降、土地公有化と遺構復原整備が進められています。
江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて遠州灘から深く入り込む入江があって、横須賀城を天然の要害としていました。入江には横須賀湊があり、大きな船も寄港し水上交通と物流の拠点となっていました。また、この入江と外堀を区切る形で中土居と呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる街道となっていました。小笠山を挟んで立地する掛川城が、陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要であったと考えられます。城前のこの入江は、宝永4(1676)年の宝永大地震による地盤隆起によって干し上がり、横須賀城周辺の様子は一変するとともに湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は軍事と経済面で大打撃を受けたと考えられます。湊が使えなくなった以降は西方の太田川河口の福田湊まで運河が造られて小舟が行き来しました。
H17.5.4
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H29.5.4(写真差し替え)
住所: 静岡県掛川市西大渕
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