鹿児島城〔鶴丸城〕(鹿児島市)
江戸時代の島津氏の居城・鹿児島城(鶴丸城)
2005年12月03日

鹿児島城(鶴丸城)は、関ヶ原合戦の後、上山城(城山)の補修と麓の居館づくりを思い立ち、父義弘のここは海に近すぎて危ないという反対を押し切って慶長6(1601)年に島津忠恒(家久)により着工され、慶長9(1604)年に完成しました。城の形が翼を広げた鶴に似ていたことから鶴丸城と呼ばれています。
江戸時代を通して薩摩島津氏77万石の居城でした。城といっても本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりでした。これは、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷士団が守る外城がめぐらされていました。
城下は鶴丸城を中心に武家屋敷、その外側に上町6町、下町12町、そして西田町4町が設けられ、5000人余りの町人が集められましたが、圧倒的に武士の多い城下町だったようです。
維新後は、熊本鎮台の分営として使われていましたが、明治6(1873)年、火災で本丸が焼失し、明治10(1877)年、西南戦争で二の丸が焼失しました。
現在は、現在は本丸の堀と石垣を残すのみです。
平成18(2006)年、日本100名城に指定されています。
明治初期に記された成尾常矩指図によると、本丸には大小100以上の部屋があったとされ、そのうちの一つには能舞台もあり、平成26(2014)年度の発掘調査で、その一部が見つかりました。現在、鹿児島城跡の山城(城山)部分が国指定史跡及び天然記念物に、本丸部分の石垣が県指定史跡になっています。
御楼門は、残された古写真の解析や現存する礎石に残る痕跡等から、二重二階造、木造本瓦葺きで、屋根に鯱を上げ、この鯱までの高さが約20m(推定)もある国内最大級の武家門であったとされています。
周囲には当時の礎石(大きいもので約1.2m×約1m)が今も残されており、その表面には柱に巻き付けられた金物の錆色が観察されます。これにより、主柱の太さは約90cm×約70cmであったことが分かりました。
御楼門は、明治6(1873)年12月の火災により、本丸とともに焼失してしまいましたが、これを再建しようと民間の「鶴丸城御楼門復元実行委員会」と鹿児島県は、平成27(2015)年2月に、「鶴丸城御楼門建設協議会」を設立し、平成32(2020)年3月の完成を目指して官民一体となって取り組みを進めています。また、江戸時代の薩摩藩による宝暦治水工事の業績を縁に、鹿児島県と姉妹県盟約を締結している岐阜県から、両県有効の証として岐阜県産のケヤキを提供していただきました。
H16.9.9
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.20(写真差し替え)
住所: 鹿児島県鹿児島市城山町7−2
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