鹿児島に上陸しキリスト教の布教の第一歩を記したザビエルを記念し整備された公園・ザビエル公園
2005年12月04日
「博学にして礼儀ある人」と島津家菩提寺福昌寺の老僧であった忍室という和尚は、宣教師フランシスコ・ザビエルの学識と人柄をたたえました。二人の親しい交わりは「白坊主(ザビエル)と黒坊主(忍室)の語らい」として記録されています。
フランシスコ・ザビエルを日本に案内したのは、ヤジロウ呼ばれる鹿児島の青年でした。彼は貿易商で、知り合いの船長からザビエルのことを聞き、是非会いたいものだと考えマラッカに行きました。ヤジロウをみたザビエルはその人柄に感心し、日本にキリスト教を伝えたいと考えました。
天文18(1549)年8月15日イスパニアのザビエルは日本人ヤジローまたはアンジロウといわれる鹿児島の青年の案内で、鹿児島に上陸し日本へのキリスト教布教の第一歩をしるしました。
島津家15代貴久は伊集院の一宇治城でザビエルと対面し、領内布教を許可しました。ところがその後、仏教徒の激しい反対にあったり、期待した貿易船がやって来なかったことで貴久は布教に冷たくなります。鹿児島を去ったザビエルは天皇から全国宣教の許可をもらおうと洗礼名ベルナルドという鹿児島の人をつれて平戸から山口、堺、京都まで足をのばし、日本のキリスト教伝道の道を開き、豊後(今の大分県)の沖之浜からマラッカ(今のマレーシア南西部)にむけて帰航の途につきました。日本滞在中にザビエルは初代インド管区長に任命されています。
そして、ついに天文21(1552)年中国で亡くなりました。
ザビエルは帰航の際ベルナルドをヨーロッパに送りました。ベルナルドは天文23(1553)年9月にリスボンに着き、ローマ教皇にも会いました。ベルナルドはヨーロッパの土地を踏んだ最初の日本人です。大変立派な人で、ヨーロッパ人に大きな感銘を与えましたが、残念なことに病気にかかり、弘治3(1557)年に亡くなりました。
なお、石造りの建造物は、明治年間に建てられ戦災で焼失した記念堂の一部です。戦後の昭和24(1949)年ザビエル渡来400年を記念して、ローマ法王の寄付金をもとに教会が建設され、同時にザビエルの胸像も建てられました。
現在は、ザビエル公園となっており、ザビエル滞鹿記念碑や平成11(1999)年10月8日に建てられたザビエルとヤジロウ、ベルナンドの像などがあります。
(現地説明板などより)
H16.9.9
Photo SONY NEX-7
H26.7.20(写真差し替え)
住所: 鹿児島県鹿児島市東千石町4