大久保利通銅像(鹿児島市)
甲突川河畔にある大久保利通銅像
2005年12月04日
大久保利通は明治草創期の指導的政治家です。座右の銘は「為政清明」で、藩閥意識を超えて新生日本の近代化に尽くしました。
天保元年(1830)年に生まれ、幼名は正袈裟、通称は一蔵、号を甲東と称しました・幕末期、薩摩下級藩士のリーダーとして藩論を尊皇にまとめる一方、最後の藩主島津忠義の父久光の信頼をえて、藩政の改革にも手腕をふるいました。
薩英戦争後はイギリスとの講和をまとめ開国に目覚めるとともに、沖永良部から西郷隆盛を呼び戻し、歴史的な名コンビとして倒幕に奔走しました。
薩長同盟の締結をみてついに慶応3(1867)年明治維新が達成されたのです。
新政府樹立後は政界の中心人物として、藩籍奉還、廃藩置県の実現につとめ、大蔵卿時代は地租改正の建議を行いました。
また、欧米諸国を視察し、帰国後は内務省を設立し事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務しました。
ところが、この頃から西郷隆盛と対立、西南戦争によって竹馬の友を失ったのです。
その大久保もまた、明治11(1878)年出勤途中を襲われ急死。
ロンドンタイムスは、「氏の死は日本全国の不幸である」と報じました。
没後100年を記念して、中村晋也氏が制作により昭和54(1979)年9月26日に設置されたものです。
甲突川の河畔にあります。「甲東」というのが大久保利通の号で、甲突川の近くで生まれた少年の頃を思っていたことがうかがわれます。像の足元には、大久保が暗殺された際に一緒に亡くなった馬車夫と馬の像も彫られています。
(現地説明板などより)
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Photo SONY NEX-7
H26.7.20(写真差し替え)
住所: 鹿児島県鹿児島市西千石町
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