府内城(大分市)
石田三成の娘婿・福原直高が築城した府内城
2010年08月02日
府内城は、慶長2(1597)年、石田三成の娘婿・福原直高(福原長堯)により築城が開始されました。
荷揚城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかつての「荷落ろし」(交易地)の場所に城地を定めました。
荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み「揚」の字に改めたといわれています。
また、その美しい姿から白雉城とも呼ばれています。
しかし秀吉没後、石田三成を後ろ盾とした福原直高は府内城を追われ、替わって早川長敏が城主とりますが、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで西軍に属したため断絶となり、翌慶長6(1601)年、豊後高田より竹中重利が2万石で入り、築城を再開し、石垣の築造には熊本藩の加藤清正の援助を受けるなどして、慶長7(1602)年四重の天守閣がそびえる城郭が完成しました。
しかし、竹中氏2代・重義が改易となり、寛永11(1634)年、下野壬生城より日根野吉明が入りましたが、吉明に嗣子無く断絶し、万治元(1658)年豊後高松より松平(大給)忠昭が2万2千石で入封し以後、松平氏が10代続いて明治を迎えました。
明治4(1871)年11月大分県が成立、翌年城内に県庁が置かれて県政の中枢を担う場所となりました。
大正10(1921)年には、新県庁舎が竣工しましたが、戦後昭和37(1962)年庁舎の移転にともない、昭和41(1966)年には現在の大分市文化会館が完成しました。
この年、米軍の大分空襲により焼失した東丸着到櫓・二重櫓、西丸二重櫓、大手門も復元(鉄筋コンクリート製)され、往時の姿を取りもどしました。
城跡は旧状をとどめる堀、土塀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定されています。
平成8(1996)年、西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋が復元されました。
平成18(2006)年、日本100名城に選定されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H22.7.16
住所: 大分市荷揚町
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