鶴崎城〔熊本藩鶴崎御茶屋〕(大分市)
妙林尼の奮戦で知られた鶴崎城
2010年08月08日
鶴崎城は、築城年代は明確ではありませんが、大友家重臣・吉岡長増(宗歓)によって築かれました。
長増は、鶴崎領主となって千歳城(大分市千歳)を築き、更には館城である当城を築いて居城としたといわれています。
その後、子の吉岡鑑興が城主と成りましたが、耳川の戦いで戦死し、吉岡統増が跡を継ぎました。
天正14(1586)年、薩摩の島津氏が大軍を率いて北上し、伊集院久宣、野村文綱、白浜重政が攻め寄せました。
この時の城主吉岡統増は、大友宗麟に従って臼杵城に籠城していたため、代わりに統増の母・妙林尼が城兵の指揮をとり、島津勢と対峙しました。
妙林尼は、籠城しよく守り抜きました。なかなか城を落とせなかった島津軍は和睦を提案。一旦妙林尼もこれに応じました。秀吉軍接近のため島津軍が退却を始めると妙林尼はすぐさま攻勢に転じ、予め用意しておいた伏兵を用いて奇襲を仕掛け、伊集院・白浜の2将を討ち取ることに成功。難を逃れた野村文綱も重傷を負い、撤退中に死去してしまいました。
文禄2(1593)年、大友家が改易となると、主を失った吉岡氏も浪人となりました。
城は江戸時代に入ると当地は肥後熊本藩の飛地となりました。
加藤清正は鶴崎城跡を改修してこの地をお茶屋としました。領内巡視、参勤交代の宿泊所として利用されました。
寛永9(1632)年、細川氏が肥後熊本藩主と成りましたが、お茶屋の機能は引き継がれました。
茶屋御殿、御郡合所、御郡代詰所、御銀所、御武器蔵、御茶屋番詰所など多くの役所や役人の詰所が設けられ、成美館という学校も設けられました。
現在は、鶴崎小学校、大分鶴崎高等学校の敷地となっており、遺構は残っていないようです。
鶴崎小学校の東門(グランド側)の内側に石碑と説明看板が、鶴崎小学校と大分鶴崎高等学校の間の通路には成美館の石碑が建っています。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H22.7.16
住所: 大分市南鶴崎3丁目
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