旧竹田荘(竹田市)
豊後南画の祖といわれる田能村竹田は、安永6(1777)年、岡藩の侍医の家に生まれ、幼名を磯吉、のち玄乗、行蔵、さらに孝憲と改名し、生家を竹田荘(ちくでんそう)、自らを竹田(ちくでん)とごうしています。
寛政10(1798)年、22歳の時藩校由学館に出仕し、「豊後国志」の編纂、君山の遺稿である「豊後風土記」の校訂、出版に尽力し、文化10(1813)年に隠居が聴許されてからは専ら詩画等の研究を行い、菅茶山、篠崎小竹、小石元瑞、青木木米、末広雲華等と親交を深めています。中でも頼山陽とは深く親交を深めており、文政元(1818)年には九州旅行中の山陽を竹田に迎えています。
天保6(1835)年、59歳の時大坂の藩邸で亡くなりました。
竹田が生存していた時の竹田荘は2階建ての母屋、草際吟舎(そうさいぎんしゃ)と平屋の補拙廬(ほせつろ)、三角亭(損亭)等からなっていたようです。
昭和8(1933)年、明治に取り壊されていた草際吟舎、補拙廬が古図のとおりに再建されました。
昭和56〜57(1981〜1982)年に母屋が寛政期の姿に保存修理されました。
営業時間 9:00~16:30
休業日 月曜
入場料 高校生以上300円、小・中学生200円
南画の里をめぐる2施設共通券(竹田市立歴史資料館・旧竹田荘)450円
城下町竹田をめぐる3施設共通券(竹田市立歴史資料館・旧竹田荘・瀧廉太郎記念館)700円
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H22.7.17
住所: 大分県竹田市竹田2069
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