角牟礼城(玖珠町)

角牟礼(つのむれ)城は、弘安年間(1278〜1288)に玖珠郡衆の森朝通により標高577mの角埋山(つのむれやま)に築かれたといわれています。
古くから豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、 玖珠郡衆により守られていた城です。
天正14〜15(1585〜1586)年の島津氏と大友氏の豊薩戦で、森五郎左衛門をはじめ古後、太田氏等がよく守り、島津氏が豊後侵攻した際も唯一落城しませんでした。
文禄2(1593)年には、豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させました。
慶長元(1596)年からは毛利高政が日田・玖珠2万石を支配しました。
発掘された門跡や現存する石垣はこの時期に築かれたものと考えられています。従って、この城は文禄3(1594)年 頃豊後の要の城から領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものであると考えられています。
その後、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、毛利高政は佐伯城主に転封して、一時、黒田孝高の預り地となりましたが、慶長6(1601)年 、伊予より来島康親が入部した。しかし、来島は1万4千石の小大名であり、城を持つことを許されず、現在の三島公園に森陣屋を築き、 角牟礼城はそのまま放置され、長い歴史の幕を閉じました。
元和元(1615)年、幕府が一国一城令を公布し、二代藩主久留島通春は、城の建物や石垣の一部を破却しました。その後、森藩では、有事に備えて山を管理し、通常は一般の入場を禁止していました。
平成5(1993)年から玖珠町教育委員会により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、二の丸の礎石建物が発見されています。
(伝)三の丸、搦手門付近には石垣がよく残っています。
源為朝を祭る角埋神社があります。鎮西八郎と称された為朝は、久寿2(1155)年には、豊後国におり、この角埋にも拠っていたと伝えられています。藩政時代は、角埋山は立ち入り禁止でしたが、3月3日(旧暦)は、祭日として参拝を許していたということです。
平成17(2005)年、国の史跡に指定されています。
平成29(2017)年、続日本100名城(192番)に選定されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H22.7.17
住所: 大分県玖珠郡玖珠町大字森
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