杵築城〔木付城〕(杵築市)
徳川家宣の朱印状により木付から杵築に改名・杵築城(木付城)
2010年09月02日

杵築城(木付城)は木付氏の居城でした。
大友氏二代親秀の六男親重が、建長2(1250)年鎌倉幕府から豊後国速見郡武者所として、八坂郷木付荘に封ぜられ、地名の木付を氏とし、竹ノ尾の高台に竹ノ尾城を築きました。
木付氏四代頼直は、時勢の変遷や港湾の埋没などの理由により海と断崖に囲まれた、要害堅固の台地(城山)に城を移築し、応永元(1394)年9月11日に竣工、木付城と称しました。
木付城はまたの名を、台山城・臥牛城ともいいます。
木付氏16代木付鎮直の時代、木付城は島津義弘の部将、新納武蔵守勢の猛攻を受けましたが、天正15(1587)年2月22日、これを撃退した。以来、勝山城といわれるようになりました。
それから6年後、大友義統(吉統)は、朝鮮の役で豊臣秀吉の怒りにふれ大友氏は滅亡しました。
木付氏17代木付統直は、帰国の途中、門司浦で、大友除国の悲運をなげき、自刃入水しました。
この悲報は、ただちに木付城中の父木付鎮直に届き、文禄2(1593)年6月25日鎮直夫妻はともども城内で自害しました。ここに木付氏17代、344年間にわたる、統治の幕は閉じました。
文禄3(1594)年、豊後国の太閤検地は終わり、翌年、寺社奉行前田玄似が入部し、2年後には杉原長房に代り、杉原氏は木付城を、地続きの北方平地に移すことに着手しました。
その後、慶長4(1599)年には細川忠興の飛び領地となりました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの際には杵築城には忠興の重臣松井康之と城代有吉立行は、杵築城を攻めてきた大友吉統の攻撃を防ぎきり、救援に来た黒田如水と合流、石垣原の戦いで勝利しました。この功績により戦後、忠興より2万6000石の知行を与えられました。
寛永9(1632)年に細川氏が肥後熊本に転封になると、松井氏も八代に移り、木付城は小笠原忠和が城主となりました。
正保2(1645)年には、能見松平氏の松平英親が、3万2千石で城主となり杉原氏が手がけた城の平地移転を完了しました。
正徳2(1712)年、三代藩主松平重休のとき、徳川6代将軍家宣下賜の朱印文に木付の文字が杵築と書き違えてられていたため、幕府に伺いを建てた後木付を杵築と書くことになりました。
松平氏は、初代英親より10代親貴まで、227年間、杵築(木付)城主とでしたが、明治4(1871)年廃藩となり、ここに木付氏以来622年にわたる、杵築城も姿を消しました。
昭和45(1970)年10月、市内外有志多数の協賛をえて、杵築城の模擬天守が建設されました。
開館時間 10:00~17:00(入場は16:30まで)
料金 400円(小・中学生は200円)
共通観覧券(杵築城・大原邸・磯矢邸・佐野家・きつき城下町資料館・一松邸・重光家)
個人 1,200円(小・中学生は600円)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H22.7.19
住所: 大分県杵築市大字杵築
関連リンク
タグ
地図
関連情報