備中松山城〔小松山城〕(高梁市)
日本一高い場所にある現存天守が残る備中松山城
2006年01月13日
備中松山城は、仁治元(1240)年に秋葉重信が備中有漢の地頭となり、大松山に城を築いたのが始まりとされています。その後、元弘年間に高橋宗康が小松山まで城を拡張しました。その後、城主は高氏、上野氏、庄氏、尼子氏と変わりました。
永禄4(1561)年、毛利元就の支援を得た三村家親が尼子氏の加番吉田左京亮を討ち、城主となりました。
三村氏は、大松山から小松山まで天神丸、佐内丸、太鼓丸、馬酔木丸などの出城や出丸が設けられた一大城郭を築きました。しかし、元亀3(1572)年、足利義昭の仲裁により毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、宇喜多氏と戦っていた三村元親は、織田信長と結び毛利氏に反旗を翻しました。この備中兵乱により天正3(1575)年に毛利軍に攻められ落城しました。以後、毛利氏の所有となりました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで毛利輝元が周防・長門に所領を削減された後、
天領となり国奉行として小堀正次、政一(遠州)父子が赴きました。小堀氏は頼久寺で政務を行っていましたが、政一は慶長10(1606)年に御根小屋と備中松山城の修復を行っています。その後鳥取から池田長幸が入封しましたが、その子長常に嗣子がなく断絶し、寛永19(1642)年に水谷勝隆が入封しました。
現存する天守は、天和3(1683)年に水谷勝宗により修築されたものといわれています。
水谷(みずのや)氏は三代続きましたが、元禄6(1693)年、水谷勝美は嗣子が無かったため、改易となりました。浅野内匠頭長矩が城の受け取りにあたり、大石内蔵助良雄は一年近く在番として備中松山城にとどまりました。
その後、安藤重博、信友、石川総慶が城主となりましたが、延享元(1744)年板倉勝澄が入城し、幕末まで板倉氏が城主でした。
標高430m付近に位置する天守閣は、現存天守が全国で最も高いところにあることで有名です。結構登るのが大変です。
H14.4.28
Photo Canon EOS 30D
H19.11.23
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