鳥羽城(鳥羽市)
鳥羽城は、志摩国を平定した九鬼嘉隆が、天正14(1586)年磯部の恵利原にある「天の岩戸」に参籠し、藍染明王の神託を得て、当時、前島(観音山とも)呼ばれ、三方を海に囲まれた要害を城地と定め、大阪城築城用に三河国幡豆から海上輸送した石材の一部をもって石垣を築き約8ヶ月を要して文禄3(1591)年8月に完成したといわれています。
慶長5(1600)年関ヶ原合戦の際、嘉隆は石田三成の西軍、子の守隆は徳川家康の東軍となり、守隆に鳥羽城攻撃の命が下ったが、嘉隆は鳥羽城を灰燼に帰すことを避け、岩倉の田城に移り、西軍の破れたことを知ると慶長5(1600)年10月12日答志島の洞泉庵で切腹しました。
鳥羽城は寛永9(1632)年守隆が没するまで九鬼水軍の本拠でした。守隆の死後相続問題が起き、翌年二家に分断され、鳥羽城には寛永10(1633)年、内藤忠重が入城しました。忠重は鳥羽城を近世城郭として整備しました。内藤氏は3代続きましたが、殺傷事件で領土没収となり、土井、松平(大給)、板倉,松平(戸田)、稲垣氏と城主が変わり、明治4(1871)年に廃城となりました。
廃城後建物は取り壊され、跡地には旧鳥羽小学校、旧鳥羽幼稚園、鳥羽市役所、市民文化会館が建設されています。
しかし、本丸跡や家老跡の石垣が残り、「鳥羽城三の丸広場」も整備されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.3.8
住所: 三重県鳥羽市鳥羽3丁目1
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