道三塚(岐阜市)
長良川の戦いで戦死した斎藤道三の墓・道三塚
2011年05月04日
弘治2(1556)年4月18日、斎藤道三はその嫡子斎藤義龍と戦うことになりました。
一般に知られている話では、道三の実子ではないことを知った義龍が、道三の実子二人を惨殺し、道三を引退に追い込んだ上、戦いを仕掛けてきたことになっています。
たしかに、この合戦の二年前、道三は家督を義龍(当寺は利尚)に譲り渡しています。しかしながら、この突然の引退は、おそらく家臣団の手で半ば強制的に行われたものと思われます。家臣の支持を失い隠居を余儀なくされた道三は、最終的に義龍との武力対決に至ります。
長良川を隔てて衝突したとされる両軍(長良川の戦い)でしたが、もとより数の上で劣勢であった道三方は敗れて大半の将兵が戦死しました。
道三自身も4月20日城田寺に退れようとするところを長井中左衛門、小牧(小真木)源太、林主水などの追跡を受け、くみつかれて臑をなで斬りにされた上に鼻を削がれたと「信長公記」などの話の仲では伝えられています。63歳でした。
その遺体は崇福寺の西南(現メモリアルセンター内)に埋葬されましたが、塚は長良川の洪水の度に流されました。
その後、天保8(1837)年、斎藤家の菩提寺である常在寺第27世、日椿上人が現在の地に移して碑を建てたものです。
「道三無念の最後」という伝承は住民の間にも残っていたようです。特別な地としてこの塚には畏敬の念が払われ、周囲の開発が進む現在に至るまで守られ続けています。(説明看板より)
昭和30(1955)年12月22日、岐阜市の史跡に指定されています。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.4.16
住所: 岐阜県岐阜市道三町
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