天方城(森町)

天方城がいつ築かれたかは不明ですが、応永年間(1394〜1428)には既に山内対馬守道美の居城でした。
応永8(1401)年には、弟山城守通秀に天方城を譲り、山城守は天方氏を称しました。
天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の時代は戦国時代でそれまで遠江、駿河を支配していた今川氏が義元の死後衰退し、これを見た三河の徳川家康は遠州に進攻しました。
永禄11(1568)年、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきました。
天方城主天方山城守通興は今川方の勇将と知られており、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12(1569)年6月19日家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、先陣榊原小平太康政、天野三郎兵衛康景、大久保新十郎忠隣をして天方城攻略のため進撃させ郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられました。山城守もよく防戦したがついに力尽きて降伏しました。
翌元亀元(1570)年10月位には命令に従わずに軍兵を集めてたてこもったため再び大須賀康高、榊原康政をして外曲輪を攻められました。山城守は再び降伏し徳川の支配下に入りました。
元亀3(1572)年9月下旬、武田信玄は上洛を目指し遠州に侵攻し犬居城主天野氏の案内で飯田城を攻略して天方城にせまりました。
天方山城守は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に恐れをなし戦わずして降伏してしまいました。そこで信玄は久野氏を残して山城守とともに天方城を守らせました。
翌天正元(1573)年3月家康は「信玄に降伏したものを捨置くべきにあらず」と、天方城攻略を決行しました。先にこの城に残った武田の臣である久野氏は城兵を指揮して大手の門を切って出て戦い、寄せ手の大久保忠隣、渡辺半蔵らは烈しく攻め、ついに外堀を攻め破り本丸を攻め囲むこと3日、城主山城守、久野氏は必死に防戦したが力尽きて再び降伏しました。
遠江国風土記には、のちにまた甲州の城となりましたが、天正2(1574)年3月に家康は遠州の軍兵を率いて天方城を攻め3日のうちに攻略、この城に軍兵を置いたとされています。
その後通興の子通綱は家康の長男信康が織田信長に謀反の疑いをかけられて天正7(1579)年に二俣城にて切腹を命ぜられた際に介錯をつとめました。このため主君の長男の首を落としたという自責の念にかりたてられ高野山ののぼり仏門に入りその後越前松平秀康に仕えて越前天方氏の祖となりその子孫は明治まで松平氏に仕えました。
一方通興は天方家の存続をはかるため外孫を養子に迎え、後に家康、秀忠に従って数々の戦功をあげました。(現地説明板などより)
城ヶ平公園としてかなり整備されており、城跡まで車で登ることができます。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.5.5
住所: 静岡県周智郡森町向天方
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