蛭ヶ小島(伊豆の国市・旧韮山町)
このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝配流の地といわれています。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつがこの蛭ヶ島であったことが想像されます。
永禄元(1160)年、14歳でこの地に流された頼朝は、治承4(1180)年、34歳で旗挙げし、やがては鎌倉幕府を創設することになります。
しかし、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではありません。
吾妻鏡によると山木攻め(頼朝旗揚げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたそうです。このことから考えると、頼朝は、治承元(1177)年頃までの17年間を蛭ヶ小島で過ごしたと考えられます。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2(1790)年、豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されています。また、「蛭島碑記」の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の贈呈に当った荻原正夫が、明治26(1893)年に建立したものであす。
また、平成15(2003)年には、蛭ヶ島の夫婦(ふたり)という源頼朝と北条政子の銅像が建立されています。
(説明看板などより)
H13.9.7
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.12.28(写真差し替え)
住所: 静岡県伊豆の国市四日町
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