相良家墓地(人吉市)
鎌倉時代から続く相良家の墓地
2011年09月25日
相良家一族の墓地は、願成寺の他に中尾山・端祥寺・富ヶ尾・八代・東京にあります。
また、供養のための墓地が、多良木町久米熊野座神社入口、同町蓮花寺跡、同町青蓮寺、上村麓等、郡内の各地に存在しています。
願成寺の相良家墓地は、歴代の相良家当主の他、その夫人や子供および相良家の家臣の墓が営まれており、その総数は249基数え、最も規模が大きなものです。それは願成寺が鎌倉時代の創建以来、相良家の菩提寺としての寺格にあったためであす。
また、墓地の正面入口にある初代長頼公の墓は、元々願成寺金堂前に埋葬され、永禄7(1564)年の願成寺金堂の再興にあたって、長頼の遺骨は金堂須弥壇の下に移され、金堂そのものが長頼の廟所となったと伝えられていました。 明治10(1877)年の西南の役で願成寺が焼失し、金堂も焼失しました。
現在の初代長頼公の墓は明治19(1886)年になって、その金堂跡に36代の相良頼紹公によって再建されたものです。
なお、相良家墓地の右手にある願成寺僧侶墓地には、願成寺関係の僧侶の五輪塔・無縫塔等による 石塔群があるほか、相良家一族の墓が営まれています。
また、相良家墓地には石田三成ほかの供養塔があります。関ヶ原の戦いの際、相良氏は西軍に付き、福原直高、熊谷直盛、庄兵衛親子、垣見一直、木村 勝正・伝蔵親子らと共に大垣城を守っていましたが、相良直毎、秋月種長、高橋元種らは東軍に寝返り、熊谷以下5人を軍議を名目に誘い出し殺害し、本丸の福原直高を攻め落城させました。寛永9(1632)年、相良長毎は石田三成、熊谷直盛、熊谷勝兵衛、垣見一直、木村勝正(宗左衛門)、木村伝蔵の33回忌供養を行い、願成寺裏山に石塔を建てました。
熊本県指定史跡となっています。
(説明看板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.9.15
住所: 熊本県人吉市願成寺町
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