佐敷城(芦北町)
加藤清正が薩摩国や球磨、天草地方へつながる交通の要に築いた佐敷城
2011年09月25日
佐敷城は、肥後国を治めた加藤清正が薩摩国や球磨、天草地方へつながる交通の要であった佐敷に天正17(1588)年頃に築城したといわれています。
佐敷の地は、元々は在地豪族佐敷氏が治めていましたが、当時の城は現在の佐敷城の東側の城だったといわれています。
名和氏や相良氏、島津氏の間で争奪が繰り広げられていましたが、豊臣秀吉の九州征伐において、佐々成政の領地となった後、肥後北部の領主となった加藤清正の飛び領地となりました。
清正は佐敷城を築くと、加藤与左衛門重次を城代としました。
文禄元(1592)年、朝鮮出兵(文禄の役)の際薩摩の梅北国兼に乗っ取られる事件が起きました。
これを梅北の乱(梅北一揆)といいます。この後佐敷城は第1回目の改築が行われました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに関連して島津軍に包囲されました。その後大改築が行われ本書き的な近世城郭の姿になりました。
元和元(1615)年の一国一城令で廃城となり壊されますが、寛永15(1638)年、天草、島原の乱終結直後にも江戸幕府から「壊し方が不十分」と指摘され再度壊されたことが、古文書や発掘調査等により確認されています。
城山(87.3m)と呼ばれる丘陵一帯を城域とし、山上からは不知火海や天草諸島、城下町、薩摩街道の難所である佐敷太郎峠を一望できます。肥後国境を守る「境目の城」で、山上にある本丸、二の丸、三の丸が総石垣造りで構成されれいます。石垣は石材や積み方の違いなどから三時期に分けられ、築造技術の進歩を一体的に確認することができます。また、石垣隅角部や石段を念入りに壊すなど、「城の壊し方」の痕跡が確認されています。
昭和54(1979)年に石垣の一部が発見され、平成5(1993)年から平成13(2001)年にかけて発掘調査が行われました。発掘調査では、戦乱の無い時代の到来を願った天下泰平国土安穏銘鬼瓦や豊臣政権との深い関係を示す桐紋入鬼瓦、文禄、慶長の役に際し朝鮮半島から連れてきた職人が作ったと考えられる瓦等、当時の社会情勢を示す遺物が出土しました。
平成9(1997)年から公園として整備され、平成10(1998)年、熊本県の史跡に指定され、城跡より出土した「天下泰平国土安穏」と彫られた瓦も同時に県指定の重要文化財に指定されています。
平成20(2008)年、国の史跡に指定されています。
(説明看板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.9.15
住所: 熊本県葦北郡芦北町佐敷
関連リンク
タグ
地図
関連情報