原城(南島原市・旧南有馬町)
天草・島原の乱の舞台となった原城
2011年10月04日

原城は、明応5(1496)年、有馬貴純が築城したものといわれ、別名「日暮城」と呼ばれています。城は、県下最大の平山城で周囲3㎞、41万㎡の規模をもち、有明海に面して南東に突出した岬を利用した要害で、城構えは本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されています。
イエズス会宣教師の報告書のなかにも記述があり、文禄・慶長の役後に有馬晴信が居住している日野江城よりも一層適地にして、堅固で防御できるような新しい城を築城中であるとの報告が見られています。有馬氏の居城は日野江城でしたが、原城は単なる支城ではなく、第2の居城だったと見ることもできます。原城の修復工事は、慶長4(1599)年にはじまり、慶長9(1604)年に完成したとされています。
城内には晴信の屋敷のほか、家臣の屋敷、弾薬や食糧を蓄える三層の櫓がありました。
慶長19(1614)年、晴信の子有馬直純は日向国県城(延岡城)に転封され、元和2(1616)年、松倉重政が大和五条から入部しました。松倉氏は一国一城令により原城を廃城とし、元和4(1618)年からの島原城(森岳城)の築城にあたり、構築用の石材として、この城の石垣等を運んだものとみられています。
松倉氏の藩政は、領民へ苛酷な賦役と重税を課し、キリシタン弾圧など厳しく行ったため、寛永14(1637)年10月25日に天草四郎時貞を盟主として、「島原の乱」が勃発しました。
原城は、同年12月3日から寛永15(1638)年2月28日まで、領民(天草の領民を含む)約3万7千人(2万7千人ともいわれる)が88日間たてこもった「島原の乱」の終焉の地です。
平成4(1992)年から実施している発掘調査によって、本丸地区から多くの遺構・遺物が出土しています。特に、十字架、メダイ、ロザリオの珠などのキリシタン関係遺物は、一揆にまつわる資料です。
また、一揆後の幕府による現地処理で、壊され埋め込まれた出入口や櫓台石垣、本丸の正面玄関に相当する出入口などが検出され、原城築城時の遺構や「島原・天草一揆」に対する幕府の対応を示す資料を発見しました。
昭和13(1938)年5月30日、国指定史跡となっています。
城跡は石垣が一部破壊されているもの空堀や曲輪跡とともによく保存されています。
城内には、明和3(1766)年、有馬村願心寺注誉上人が戦乱で斃れた人々の骨を拾い、その霊を慰めたホネカミ地蔵、天草四郎時貞の銅像、墓碑、佐分利九之丞の碑などがあります。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.9.17
住所: 長崎県南島原市南有馬町乙
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