日野江城(南島原市・旧北有馬町)
日野江城は肥前西部最大の戦国大名・有馬(鎌倉時代は有間)氏の居城です。有馬氏については藤原純友末孫説もあるが、 実は肥前高来郡有間庄を本貫とする豪族です。
日野江城は同氏の初代・経澄が建保年間(1213〜1219)に築城したとも伝えられるが、 実際は南北朝頃の築城だといわれています。
築城以降、勢力を拡大していった有馬氏は、1550年代には島原半島から肥前東部一帯21万石を領有し、現在の長崎県、佐賀県に十一城 (といちじょう)と呼ばれる支城の連絡網を張り巡らせ、広大な領域を支配していました。
第13代当主の有馬晴信は天正7(1579)年洗礼を受けキリシタン大名となりました。天正8(1580)年、イエズス会の中等教育機関 「有馬のセミナリヨ」が城下町に創立されました。
天正10(1582)年には卒業生による日本初のヨーロッパ派遣団「天正遺欧少年使節」 がローマに派遣され4少年は8年半を要し帰国しました。帰国の際、日野江城で8日間にわたる報告会が催され、 完成したばかりの屋敷に案内された時の様子が、イエズス会年報で「大小の部屋に全て黄金の品や典雅な絵画が飾られていた。この屋敷は、 最近有馬殿の手で建てられ見事な出来栄えとなった城郭の中にある」と報告されています。
豊臣秀吉の天下統一以降、有馬氏は、秀吉、そして次の天下人である徳川家康の臣下となり、島原半島4万石を支配することとなりましたが、 慶長19(1614)年有馬直純が日向延岡に移封されました。
その後には、元和2(1616)年に大和・五条から松倉重政が入封し日野江城に入りましたが、やがて島原城に移り日野江城も廃城となりました。
昭和57(1982)年、国の史跡に指定されています。
平成7(1995)年度から発掘調査が行われ、金箔瓦が出土し、遺構には仏教徒に対する弾圧があったためか、多量の五輪塔地輪が踏石に利用されている階段遺構が検出されました。
また、大陸系の技術を駆使した石垣遺構が検出されましたが、この石垣は当時の城郭石垣には他には例を見ない貴重な石垣です。
大手口を上ったところにある二の丸の石垣遺構が見どころです。
本丸には浦口から登るのがおすすめです。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.9.17
住所: 長崎県南島原市北有馬町戊
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