高田城〔勝山城〕(真庭市・旧勝山町)
三浦氏の居城・高田城〔勝山城〕
2012年05月06日

高田城は、延元元年(建武3年、1336年)関東地方の名族・三浦氏の当主・三浦高継は足利尊氏より美作国にある新田義貞勢を討伐するよう命じられ、高継は足利軍に合流し湊川の戦いで高継は楠木正成と戦っておりこの頃には高田城が築かれていたと考えられています。
室町時代初期の延元5(1340)年、三浦貞宗は美作真島郡の地頭に任ぜられ、貞宗は着任と同時に今川了俊の縄張りにより現在の勝山の2つの丘陵に築城したと伝えられています。
貞宗から8代城主三浦貞連までは不明な点が多いですが、長亨元(1487)年に貞連が将軍足利義尚の六角氏討伐のため近江に派遣されたことや、笹向城を攻撃したことから、高田城を拠点として領地拡張が活発に行われていたと考えられています。
天文13(1544)年時の当主貞久は尼子晴久麾下の宇山久信に攻められたがこれを撃退しました。天文17(1548)年貞久が死去し11歳の貞勝が当主となるとこの機に乗じ宇山久信に再び攻められ一旦は落城します。しかし、永禄2(1559)年貞勝は尼子氏が毛利元就に攻められている隙を衝いて高田城を奪還しました。
永禄年間には弱体化した尼子氏に代わって毛利氏が中国地方に台頭しました。永禄8(1565)年備中松山城主三村家親は毛利氏の麾下となり高田城を攻め、1ヶ月の攻城戦ののち落城し貞勝は自刃して果てました。
この時、貞勝の妻お福(円融院)は子の桃寿丸を伴って備前国へ落ち延びました。お福は後に宇喜多直家の妻となり秀家を生んでいます。
永禄9(1566)年宇喜多直家によって三村家親が暗殺されると、三浦家臣団は貞久の末弟・貞盛を擁立して高田城の奪還を果たしました。
しかし、永禄12(1569)年再び毛利軍によって落城し貞盛も討死しました。
三浦氏による高田城奪還戦はこの後も続き、貞勝の弟・貞広を大将に城を攻め続けました。当初、宇喜多氏の援助による攻城を行っていたが、そのうち宇喜多氏は諦めて兵を引き上げました。代わって尼子氏遺臣・山中幸盛の援軍により元亀元(1570)年三度の高田城奪還に成功しました。奪還に成功したとはいえ、この地は毛利氏・宇喜多氏の2大勢力に挟まれ絶えず双方より侵攻される非常に不安定な地位にありました。
天正3(1575)年宇喜多氏は城主・貞広に毛利氏との和議を説き、遂に城は毛利氏に明け渡されました。なお、お福ともに宇喜多氏の庇護を受けていた貞勝の遺児・桃寿丸は天正12(1584)年京都で地震に遭い死去し、ここに美作三浦氏の血統は絶えました。
その後は毛利氏の支配下にあり楢崎元兼が城主となりましたが、天正12(1584)年備前・美作は宇喜多秀家の所領となり牧氏が城代となりました。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで秀家が敗れると備前・美作には小早川秀秋が入封し高田城に城代が置かれました。慶長8(1603)年からは森忠政が津山城主となると、勝山も津山藩領となり高田城には各務氏・大塚氏が城番として入りました。
元禄10(1697)年森氏が改易となると勝山は天領となり一旦は廃城となりました。
明和元(1764)年三河国西尾城より譜代大名の三浦明次が2万3千石をもって真島郡を領し勝山藩が成立しました。なお、藩主となった三浦氏はかつての城主・三浦氏とは祖先を同じくしています。
明次は幕府より4千両の城修築費援助を受けて、かつての高田城の西山麓を中心に御殿などの整備が行なわれ勝山城と名付けられました。修築された勝山城は二ノ丸に二重櫓が上がり、三ノ丸には御殿がありました。以後、明治維新まで三浦氏の居城となりました。しかし、明治4(1871)年廃藩置県により廃城となりました。
現在も山頂から中腹にかけて曲輪や堀切が、また城山グラウンド(旧・二の丸)の西隅にはかつて二重櫓が立てられていた櫓台の石垣が残っています。また、西麓に設けられた三の丸は旭川左岸の段丘上に築かれ、現在の真庭市役所勝山庁舎を含む広大な範囲を敷地としています。
平成16(2004)年には前年に終了した三の丸遺跡の整備が完了しました。
(関連情報URL・・・三の丸遺跡)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H24.4.14
住所: 岡山県真庭市勝山
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