柳川城(柳川市)
蒲池氏、田中氏、立花氏の居城・柳川城
2012年10月02日
柳川城は、永禄年間に蒲池鑑盛によって本格的な城として造られました。
水の利を充分にいかした平城で掘をめぐらし、扉の開閉によって城内の水が増減できるようになっていました。
蒲池鑑盛の子蒲池鑑漣に至り天正8(1580)年、龍造寺による数ヶ月に及ぶ攻撃に耐え、柳川城攻略を挫折させました。
翌年龍造寺隆信により佐賀に於いて謀殺されその一族もすべて殺害され応永以来の蒲池一族は滅亡しました。
天正12(1584)年、大友勢の筑後攻略にも柳川城は持ちこたえました。
天正15(1587)年、立花宗茂が豊臣秀吉の九州平定に際してその功により筑前立花城より19歳で当地にうつされたが慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したため改易され、この後岡崎城主田中吉政が筑後32万石余の領主として入国し柳川を居城とするに及び石垣を更に高くし天守を築き従来にも増して防備を厳重にしました。
元和6(1620)年、田中吉政の子忠政に後継なく断絶したため奥州棚倉一万石より12万石の領主として立花宗茂が再度当地に入国しました
以後明治維新を迎えるまで立花氏の居城でした。
明治5(1872)年1月18日夕刻火事により天守は焼失し、石垣は、明治7(1874)年の大風により海岸堤防が決壊したためその補強に転用されました。
昭和3(1928)年に御大典記念事業として城趾・城濠の一部を公園として保存、残りを水田に開墾することが決定されました。その後柳川商業高等学校(現在の柳川高校)、柳城中学校が建てられ現在に至っています。
「柳川三年肥後三月肥前久留米は朝茶の子」と言われます。柳川城を落とすのは三年、肥後(熊本城)は三月、肥前(佐賀城)・久留米城は朝飯前という意味だそうです。
天守台跡は柳城中学校の運動場の一角にあり、地元では「へそくり山」と呼ばれているそうです。天守台と僅かな石垣が残っているのみで名城なのに寂しい感じでした。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H24.9.2
住所: 福岡県柳川市本城町82
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