田原坂公園・田原坂崇烈碑(熊本市北区・旧植木町)
官軍の立場から碑文がまとめられた田原坂崇烈碑
2012年10月06日
田原坂崇烈碑の碑文には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子などがまとめられています。
とくに、西南の役の激戦の中で、死傷者が四千余人にものぼった田原坂の戦いのような激しい戦いは他にはなかったこと。またもし、薩軍が南関を破り北上したなら、各地の政府に不満の者が隙を見て立ちあがり、禍いは測り知れぬものになっただろう。そうならなかったのは田原坂の戦いに勝ったからであることなど、田原坂激戦と勝利の意義が官軍の立場から述べられています。
鹿児島県は西海に於いて地最も広く、人最も勇なり。而して西郷隆盛名望世を覆ふ。海内の人士その進退を候し、以て安危と為すに至る。
明治十年二月隆盛反し熊本城を囲む。天皇震怒、兵を発して之れを討つ。熾仁総督の責に任ず。陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義参軍たり。賊は兵を分ち、植木山麓の両道を扼し、進んで高瀬に入る。廿七日我軍高瀬を撃ちて取る。越えて四日木葉を抜く。賊退いて田原坂の険に拠る。而して熊本の囲み益々密にして援路皆絶つ。 夫れ田原の地たる両崖壁立径路崎嶇(りょうがいへきりつけいろきく)たり。賊悉く(ことごとく)精鋭にして堅塁を築き、咆哮出没虎狼の如く有り。要害形を異にし、攻守勢を殊にす。而して我が軍殊に死戦昼夜をすてず十有七日遂に之れを抜く。死傷四千余人、この役たるや鏖戦前後数百、而して未だ田原坂の如き劇あらざるなり。 苟もこの坂にして抜けず、賊をして南関を破り北せしめば、即ち四方不逞の徒必ず隙に乗じて起ち、禍ひ測るべからず。而して其れを此に至ら使めず、遂に速やかに討滅に致らしむるものは実に此の一捷(いっしょう)に由る。 嗚呼死者の功大なり。而して焉(いずくんぞ)見るに及ばず、痛ましい哉。因って碑を阪上(ばんじょう)に建て、似て之れを記す。蓋し忠烈を勧奨する所以なり。
明治十三年十月
陸軍大将二品大勲位 熾仁親王撰文竝篆額
陸軍省六等出仕従六位勲五等秋月新太郎書
(説明看板より)
Photo SONY NEX-7
H24.9.2
住所: 熊本県熊本市北区植木町豊岡
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