回天館(水戸市)
天狗党ゆかりの鰊倉を移築・回天館
2013年08月24日

回天館は、天狗党の変における越前国敦賀の悲劇を伝え、明治維新の礎として後の世に残すため移築保存されたもので、当時、この建物は、北前船の寄港地、敦賀港にあった十六棟のうちの一棟であり鰊倉(にしんぐら)、鯡倉(ひぐら)ともいわれた倉庫です。
元治元(1864)年3月27日、尊王攘夷の旗をひるがえして、筑波山に挙兵した藤田小四郎・田丸稲之衛門等のいわゆる天狗党の志士達(当初72名)は、幕府討伐軍や水戸の佐幕派と、各地で激戦を展開しました。
この年の夏、遊軍の榊原勢とともに常陸那珂湊一帯で幕府軍、水戸諸生党軍と激戦を展開し、榊原勢の降伏により天狗党勢は先人を脱出し、尊王攘夷の悲願を、禁裏守衛総督一橋慶喜(のちの15代将軍徳川慶喜)を通して朝廷に訴えるため、武田耕雲斎を総帥とし、常陸大子を11月1日京都へ向けて出発しました。
総勢1千余名の志士達は、下野、上野下仁田、信濃和田峠などにおいて、幕命を受けた諸藩兵と戦い、厳寒の中を美濃、飛騨から越前へ踏破し、敦賀近くの新保宿で寒さと糧食を欠き、幕府軍の重囲に進軍ままならず、頼みとする慶喜公が一行に対する討伐を命じたとの報を得て、12月17日、遂に幕府軍先鋒隊加賀藩に降伏しました
志士達823名は越前敦賀の三寺院に分散収容され、加賀藩の永原甚七郎らの手厚い保護を受けましたが、翌慶応元(1868)年1月29日、幕府軍総督田沼玄蕃頭意尊によって、敦賀にあった16棟の鰊(鯡)倉に押し込められ、一棟あたり約50名を幽閉し、言語に絶する扱いのあげく、2月4日から5度にわたり、352名をこの倉から引きずり出し斬首という、我が国未曾有といわれる斬刑に処されました。
勝海舟や、西郷隆盛は「これによって幕府自身の命運がつきた」と評しました。
以来約100年後の昭和33(1958)年、敦賀港の整備事業により、鰊倉は解体処分されることになりました。
水戸の先人達は天狗党ゆかりの建物としてこれを惜しみ、敦賀市の厚意によってその一棟を水戸市に寄贈され、常磐神社の境内に移築復元されて「回天館」と名付けられました。
館内には天狗党ゆかりの資料等を展示し、来館者に深い感銘を与えてきましたが、老朽化し解体の状況に至りました。
この歴史的建物を保存し後世に残すため、水戸史学研鑽会吉田熟を主体とした市民有志と、回天神社により平成元(1989)年2月「回天館移築保存会」が設立され、広く浄財を募って、志士達を祀る回天神社の境内に移築再建の事業が進められました。
同年秋、現在地へ移築完成を見ました。現在、回天館は回天神社資料館として、天狗党関連資料だけでなく、回天神社御祭神に係る資料等を展示しています。
「回天」とは混乱、衰微した時勢や国勢を正しい状態に盛り返すことを意味する言葉で、藤田東湖の「回天詩史」の書名も同じ趣旨からつけられたものです。
Photo SONY NEX-7
H25.7.14
住所: 茨城県水戸市松本町13-33
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