関宿城(野田市・旧関宿町)
河川改修によりあまり形状を留めていない関宿城
2013年08月29日
関宿城の歴史はおよそ長禄元(1457)年、簗田満助の手によって、茨城県総和町水海より現在の地に築城されたのが始まりと言われています。
当時は城と言っても平屋の建物が配置されているだけでした。
簗田氏の支配は満助から持助まで六代続きましたが、やがて関宿も戦国の動乱に巻き込まれ、北条氏との激しい戦いののちに、ついに北条氏の手に落ちてしまいます。ちなみに北条氏康は、「抑彼地入御手候事者、一国を被為取候ニも不可替候」つまり、「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じであると述べ、関宿が一国に匹敵する戦略的拠点であったことを物語っています。
その後、すぐ豊臣・徳川連合軍の関東攻めにあい、北条が守る関宿城は連合軍の手に落ち、天正18(1590)年、徳川家康が関東入封した際、家康の実弟である松平康元が関宿城に2万石にて入城します。
以後、城主は松平・小笠原・北条・牧野・板倉・久世・牧野と城主が交代しましたが、宝永2(1705)年、久世重之以後明治にいたるまで関宿は代々久世氏の治める領地となりました。
明治2(1869)年、版籍奉還後、関宿城の所管は明治政府の手に移り、明治5(1872)年にはその所管が政府から陸軍省へ移され廃城と決定され、明治8(1875)年に城の所管が陸軍省から再び政府に移動したのをきっかけに、親藩・譜代7家23人の大名を輩出した関宿城は同年までに全て破却されるに至りました。
現在城跡として残っているのは全体の一部で、約3分の2は、明治以降何回となく繰り返されてきた河川改修により、堤防の下に埋もれてしまっていますが、当時の城の大きさは、本丸・二の丸・三の丸だけでも約6000坪あったといわれています。
現存する建築物は、埋門、大手門が市内に、城門と伝えられる薬医門が逆井城に移築されています。また、実相寺の客殿は、明治4(1871年)年に失脚した前老中久世広周が謹慎した本丸新御殿の一部を移築したものです。
(現地説明板などより)
Photo SONY NEX-7
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H25.7.15
住所: 千葉県野田市関宿三軒家
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