伝長船紀伊守屋敷跡(瀬戸内市・旧長船町)
宇喜多氏の家老を務めた長船紀伊守屋敷跡
2014年03月01日
長船氏は長船家家伝によれば、始祖は小笠原左近将監近忠で、信濃国長船庄より福岡郷靱負村に来住し、之より村の名「長船村」となりました。
その子孫より刀工光忠、長光らがあらわれ、兼光は足利尊氏の太刀を鍛え、恩賞として一丁四方の屋敷を賜わったといわれています。
この跡「城の内」として今に伝わっています。
後、長船越中守、長船紀伊守、長船吉兵衛らが宇喜多家の家老職につきました。
長船綱直は宇喜多家の老臣長船越中守詮光(貞親)の子で、天正16(1588)年父越中守が虎倉城(現在の御津町)で殺害され、相続して越中守と称しました。
文禄3(1594)年、伏見城普請のとき宇喜多家の普請奉行としてつとめ秀吉の信任を得、仕置に任ぜられました。
また紀伊守は秀家の信任も厚く岡山城の改築、文禄地検を行った。
慶長3(1598)年秀吉死後、紀伊守は浮田左京、岡越前守ら武将派によって殺害されました。関ヶ原の戦いの後は長船氏は大庄屋などを務めたといわれています。
この屋敷跡の東側の竹やぶの中には、西行法師が諸国行脚のとき、長船にきて腰を掛けたと伝えられる腰掛石があります。
「長船にかちする音の聞ゆるはいかなる人のきたうなるらむ」の歌碑が建っています。
また土師正通寺の現在の客殿は紀伊守が住んでいた邸宅を譲り受け建立したものといわれます。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H26.2.16
住所: 岡山県瀬戸内市長船町長船
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