吉弘神社(別府市)
石垣原の合戦で戦死した大友軍の武将吉弘統幸を祀る吉弘神社
2014年07月21日
吉弘神社は、石垣原の戦いで戦死した大友軍の武将、吉弘統幸を祀る神社です。
慶長5(1600)年9月13日、黒田如水八千の大軍と大友義統三千の軍と石垣原において戦いました。
大友軍右翼の大将吉弘嘉兵衛統幸は、決戦を前に中秋の月を仰いで統幸は一族の武将と決別の宴を催し辞世の句を残しました。
「あすは誰が 草の屍やてらすらん 石垣原の今日の月影」
そして、決戦では奮戦し、一時は黒田方を敗走させるなど活躍しましたが黒田方の勇将井上九郎右衛門之房と雌雄を決し戦死しました。
首級は実相寺山に陣を張る黒田如水の命により、吉弘の郷里屋山城(筧城)に送られました。
享年38歳、その屍は宝泉寺の僧侶、里人と共に此の地に葬り「統雲院殿傑勝運英大居士」と諡られました。
吉弘統幸の墓は本殿の裏側にあり、右側の板碑型の墓碑が吉弘統幸の墓と伝えられています。
墓は総高1.85mで、頭部は丸く加工され、前面は平滑に削り、額部の突出があるなど板碑の形式を踏まえた様子が伺えます。
左側の石殿は、吉弘統幸の二男正久が仕えた細川氏が建立したもので、正面の屋根の棟には吉弘氏の家紋が刻まれ、裏側の屋根の棟には細川氏の九曜文が刻まれています。
下馬の松は、その忠節を後世に伝えんと墳墓の側に一株の松が植えられたものでした。年を経て老松枝を垂れ、往来の旅人、参勤の諸公も此の墓前を乗り越せば必ず落馬の崇りがあるということから下馬の松といわれました。
明治初年、伐採されてしまいましたが、後に大分県知事の田中千里が二代の松を植えその史蹟を明らかにしました。
大阪府知事だった林市蔵が「代から代へ緑伝えよ下馬の松」の一句を石に刻んだのが石碑が境内にあります。
神社は大正12(1923)年9月、吉弘統幸の子孫吉弘茂義氏が官許を得て創建しました。
現在の拝殿は平成13(2001)年に造営されました。
(現地説明板などより)
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第49回「如水最後の勝負」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.17
住所: 大分県別府市石垣西6-6-36
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