石垣原古戦場・七ツ石広場(別府市)
石垣原の戦いでの激戦地・七ツ石
2014年07月21日

この付近は古くから「七ツ石」と呼ばれ、石垣原合戦の時、戦場となった所です。
文禄元(1592)年4月、大友義統は朝鮮の役に出陣したが、成果なくその為、秀吉は大友氏の領国37万石を没収し、義統を毛利氏に預かり幽閉しました。
慶長3(1598)年、秀吉が死去すると、豊臣方と徳川方の争いは表面化し、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦が近づくと、大友義統は豊後の領国を回復するため、豊臣方に味方しました。吉弘統幸は、主君・義統に対し、豊臣方につくことの不利を説きましたが、聞き入れられることはありませんでした。
9月9日、大友義統は兵3千を率いて安芸の大畑を船出し、別府 浜脇に上陸しました。直ちに本陣を南立石本村古屋( こや )に置き、その他大友方の布陣は鶴翼の陣で、本陣に主将・義統と田原紹忍(大友宗麟正妻・奈多夫人の実兄)、左翼に堀田上方、御堂ヶ原に宗像鎮続、右翼を坂本(観海寺)に吉弘統幸を配しました。
一方中津城に居た徳川方の黒田如水は、松井佐渡、竹中重利ら八千の兵を率い杵築、亀川を経て、加来殿山、実相寺山に陣を布しました。
慶長5(1600)年9月13日、両軍は山を降り、七度にわたり戦い、七ツ石付近の原野は血に染まった、と語り継がれています。
吉弘統幸は、大石の上に立ち、最後の力を振り絞って槍を振るったという伝説が残ります。
宗像鎮続は斃れ、傷ついた統幸は 「今はこれまで」と、血刀を杖に家来共々を引き連れて、七ツ石をあとに石垣原付近まで登り、別府湾上を昇り来る月を眺めながら
「明日は誰(た)が草むす屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」と、辞世の句を詠んで自刃しました。
その時後を追って来た黒田方の将小栗冶左衛門は吉弘統幸の首を獲り、黒田の陣に引き揚げたといわれています。
この日の戦いで大友方は吉弘統幸、宗像鎮続、都甲兵部など、黒田方は久野冶左衛門、曽我部五右衛門など、多くの家来を亡くしました。
この戦いで黒田方は勝ち、大友義統は降伏しました。鎌倉時代以後22代約4百年の長い間、豊後を支配した大友氏の時代はここに終わりを迎えました。
七ツ石広場(七ツ石公園)敷地内には数基の大石の他、稲荷大明神が祀られ、共同浴場「七ツ石温泉」があります。
石垣原の戦いの後、この付近の雑木林にある大石の周囲に白狐が現れると噂になり、近くを行き交う人達が大石を祀り拝むようになったといわれ、七ツ石稲荷神社が建立されました。
この付近は、砂礫の原林野で速見郡石垣村といわれていましたが、温泉付き分譲別荘地として大正9(1920)年、「観海寺株式会社」が観海寺・荘園地区一帯を取得し、温泉場、橋、道路、植樹等の事業に取り組みました。
その後昭和3(1928)年、久留米の財閥である国武金太郎氏の「国名合名会社」がこの事業を引き継ぎ、昭和4(1929)年には荘園のシンボル的施設になっている「温研」(現九州大学生体防御医学研究所附属病院)を誘致しました。又、周辺の開発を進める傍ら桜の植樹を行い、「別府荘園」の基礎を築きました。
昭和18(1943)年に故石坂一馬氏がその会社を引き継ぎ「泉都土地建物(株)」に改組し、さらに荘園地域の開発に努め、現在の桜並木の名所「荘園町」誕生に尽力されました。
「七ッ石公園並びに温泉施設」は故石坂一馬氏が荘園町自治会に寄付し、その後昭和46(1971)年に別府市に寄付されたものです。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第49回「如水最後の勝負」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.17
住所: 大分県別府市荘園
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