金剛寺跡(霧島市・旧国分市)
島津義久の墓や丁丑戦亡之塚がある金剛寺跡
2014年08月10日
金剛寺は、島津十六代義久が慶長9(1604)年、富隈城(霧島市・旧隼人町)より、国分新城(舞鶴城)に移った時に祈願所(真言宗大乗院の末寺)として建てられました。名称は義久の号「龍伯」の「龍」の一字をとり「五峯山龍護院金剛寺」と名付けられました。
境内には花尾権現の堂を建て、始祖源頼朝や島津氏の初代忠久、忠久の母堂である丹後局の霊を祀りました。境内には本堂、客殿、茶堂、鐘楼、さらに僧の住居の「坊」などがあり、当時は相当な規模の寺であったと推測されます。
明治2(1869)年、廃仏毀釈によりすべての建造物を失いました。廃絶した跡地には義久の墓や、第十世真應上人の石室、歴世住職の墓碑があります。
義久の墓は、5m以上ある石造りの層塔で「妙谷寺殿貫明存忠庵主」と刻まれています。義久の遺体は鹿児島市の福昌寺に葬られましたが、その一部(抜歯といわれる)が祀られたものとされています。
招魂社は、明治10(1877)年の西南の役に薩軍として出陣し、生還をした旧国分郷の従軍者及び遺族の協議により、若くして戦場の露と消えた139柱の御霊を慰めるために明治12(1879)年金剛寺跡に設立されたものです。
生還者、遺族が各々応分の拠出をなし、明治15(1882)年には「丁丑戦亡之塚」が建立されました。
国分兵児は、加治木から先発の第六・七番連合大隊長、別府晋介(31歳)、雷撃隊大隊長の辺見十郎太(29歳)の麾下として肥薩の戦野を朱に染めて奮戦しましたが、戦い利にあらず敗れました。従って国分郷の戦死者は他郷に比べて多いそうです。
尚、石碑に刻まれた「丁丑戦亡之冢」の文字は、南洲翁(西郷隆盛)の書の師であった川口雪篷(号香雲)の筆によるものと伝えられています。
金剛寺に付属していた畑は、「招魂畑」と呼ばれ、長年遺族等が耕作していました。
毎年、2月14日(国分出立の日)には、金剛寺跡地に建立されている戊辰戦役碑、日清日露戦役殉忠碑、大東亜戦争戦没者慰霊碑の戦没者も合わせて慰霊祭を挙行しています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.19
住所: 鹿児島県霧島市国分中央二丁目3842-1
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