大隅国分寺跡(霧島市・旧国分市)
国分の地名の由来にもなった大隅国分寺跡
2014年08月11日
霧島市「国分」の名の由来となりました国分寺は、奈良時代に聖武天皇の勅願によって国ごとに設置された寺院で、僧寺と尼寺がありました。
正式名は僧寺を「金光明四天王護国之寺」、尼寺を「法華滅罪之寺」と言います。
この頃の日本は、地震や天候不良による凶作、さらには天然痘の流行などがあり、多くの人々が苦しんでいました。また、朝鮮半島の新羅との関係が悪化する中、大陸と朝鮮半島に対する守りの要であった大宰府で、藤原広嗣が反乱を起こすなど、世情不安が続いていました。そこで、聖武天皇は、鎮護国家と五穀豊穣を願って、天平13(741)年、国分寺の建立を命ずる詔勅を出しました。
国分寺は、国府に近く、南に開けた小高い場所で人々が参詣し易い閑静な場所に建立するように命じており、これまでの発掘調査で確認した遺構や出土遺物(布目瓦等)からみて、大隅国分寺も当地に東西南北に合わせて造られましたが、舞鶴城築城に伴う城下町の整備や明治初年の廃仏毀釈によって、国分寺の殆どが壊されました。現在では仁王像と多重層塔が当時の面影を残しています。層塔には「康治元年壬戌十一月六日」(1142)の銘があり、大隅国分寺の再興を祈願して建立されたものと考えられます。
大正10(1921)年3月3日、国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.19
住所: 鹿児島県霧島市国分中央1丁目23
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