島津義弘が一時期居館とし、後に越前(重富)島津氏の居館となった平松城
2014年08月16日
戦国時代の天文23(1554)年、岩剣合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城(平松城右手の急峻な山)の落城によって終止符を打ちます。この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかしながら、山頂から麓までの道は大変険しく日常生活には不便でしたので、ふもとのこの地へ館を築きます。これが平松城の始まりです。
義弘は慶長5(1600)年の「関ヶ原の合戦」直後にもしばらく在城し、慶長10(1605)年から翌慶長11(1606)年にかけて帖佐からこの城に移り、加治木へ移るまでの居館としました。その直後、当城には島津義弘の夫人や娘の御屋地様が晩年を過ごしています。
江戸時代中頃の元文2(1737)年、藩主島津継豊は、弟の忠紀に鎌倉時代以来の名家である越前島津家を再興させます。翌年には帖佐郷から脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村(吉田郷)を割いて「重富郷」と名づけます。これ以後、平松城は越前(重富)島津家の領主の館となり、一帯には麓と呼ばれる家臣団の屋敷地が計画的に整備されています。
天明の頃、城内には藩内初期の学校である振業館が建てられました。幕末維新に活躍する島津久光(島津斉彬の弟)も若い頃越前家第20代当主としてこの平松城に住んでいます。
明治維新後、この地には重富村の役所や学校が置かれます。
現在は姶良市立重富小学校となっています。
正面の石垣は、野面積みと呼ばれる古い積み方です。体育館のある北東の土地は、城にとっての鬼門でしたので、昔は石垣が南へ折れ一段低く積まれていました。また、石垣前面の広い道は「館の馬場」と呼ばれ、幅11m、長さ約275mあります。
最後に、重富小学校正門にある門柱は、以前鹿児島県庁の正門として使用されていたものを移築したものです。鹿児島県庁は4回場所を移していますが、ここに移築された正門は、第2期にあたる明治12(1879)年から大正14(1925)年まで使われていたものです。大正15(1926)年3月にこの地に移築されたと考えられています。重富小学校正門(旧鹿児島県庁正門)は、国の登録有形文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.19
住所: 鹿児島県姶良市平松5636