平田靱負屋敷跡(鹿児島市)
木曽川治水工事の総奉行・平田靱負屋敷跡
2014年08月21日
「住みなれし里も今さら名残にて、立ちぞわずらふ美濃の大牧」という辞世を残して切腹した平田靱負は、木曽川治水工事の総奉行として世紀の大工事を指揮しました。
宝永元(1704)年、平之町に生れた平田靱負は、初め宗武、後に正輔、通称も平蔵、兵十郎、掃部、靱負と改め、31歳で父正房の跡を継ぎ、しばらく江戸薩摩藩邸に勤めた後、伊作や大口の地頭、大目付を経て、最後は家老の職にありました。
宝暦3(1753)年、島津家第24代島津重年は、幕府から木曽、長良、揖斐の3河川の川普請手伝役を命じられ、1,000人の大部隊を現地に差しむけたのです。
幕府役人の圧迫と妨害、工事中の洪水、流行病の発生、人手や資金の不足等々想像を絶する難工事が待っていました。
苦難の末、見事工事を完成させた平田総奉行は、多大の犠牲への償いと予算超過の責任を取り、宝暦5(1755)年、美濃国大牧の本小屋で自刃しました。
享年51歳、遺骨は京都伏見の大黒寺に葬られています。
現在、屋敷跡は平田公園となっています。昭和29(1954)年5月25日に平田靱負の二百年祭を行い、昭和30(1955)年5月25日、誕生地に平田靱負の銅像や、義士名を刻んだ宝暦薩摩義士の碑が建てられました。
(現地説明板などより)
Photo SONY NEX-7
H26.7.20
住所: 鹿児島県鹿児島市平之町6
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