松方正義の像(鹿児島市)
内閣総理大臣となった松方正義の像
2014年08月28日

松方正義は、天保6(1835)年2月25日に、鹿児島城下下荒田村に、父松方正恭、母袈裟子の四男として生まれました。
名ははじめ金次郎、正作、三之丞、助左衛門と改名しました。号は海東、弧山と称しました。
10歳の時一家は破産し、11歳で母を、13歳で父を失い、赤貧の中、東郷長左衛門に師事して日置流の弓術を学び、東郷實位について示現流の剣術を修行、奥義を究め文武に精励しました。
嘉永3(1850)年、御勘定所出物問合方勤務を拝命、のち大番頭座書役を7年間勤め、安政6(1859)年にはその功によって藩主島津忠義より百三十両を拝領、この時これを開封せず父の借財返済にあて父母の霊を慰めました。
文久2(1862)年、島津久光の上洛と幕政改革を目的とした、江戸への往復に随行、帰途に起こった生麦事件に際しては、久光の駕籠側にあって、身をもって主君を護り、久光の信任を得て、翌文久3(1863)年、御小納戸役を拝命、一代新番馬廻格に列し、集成館掛勤務を命じられました。
また、長崎出張中に際会した戊辰戦争においては、土佐藩の佐々木高行とともに長崎奉行所を占拠し、市中の治安維持と各国領事らと会談して通商貿易の安定をはかりました。
明治元(1868)年、日田県知事を拝命、地方官として維新政府に参加し、民生刷新と中央政府に対する多くの建言によって業績を認められました。
また、大久保利通の評価も得て、明治3(1870)年に民部大丞に転じ、明治7(1874)年には租税頭に昇進して、地租改正事業の完成に尽力しました。さらに、大久保利通没後は、その意志を体して、殖産興業政策を推進し、生涯をかけて日本資本主義の育成、国家財政の確立を主導しました。
明治14(1881)年、参議兼大蔵卿に就任して西南戦争後の経済政策に対処するとともに、翌明治15(1882)年には、日本銀行を設立して紙幣を発行し、輸出を奨励し正貨の蓄積をはかりました。
明治18(1885)年の伊藤内閣では蔵相として入閣、続く、黒田・山県内閣に留任、明治24(1891)年には、第一次松方内閣を組閣し首相となり、蔵相も兼務したため、蔵相は連続6年半にも及びました。
明治29(1896)年、第二次松方内閣を組閣して日清戦争後は経営予算を実現するとともに、金本位制を確立しました。
そしてその後も「我に奇策あるに非ず唯正直あるのみ」を信条に蔵相、内大臣、元老を歴任して国政に関与し、我が国の国力の充実と財政基盤の安定に大きな役割を果たしました。
また、この間、旧島津忠義・忠重の顧問を務め、島津家の改革にも尽力しました。
従一位大勲位公爵となり、大正13(1924)年7月2日に亡くなりました。享年90歳でした。
(現地説明板などより)
Photo SONY NEX-7
H26.7.20
住所: 鹿児島県鹿児島市下荒田1丁目
関連リンク
タグ
地図
関連情報