園林寺跡(日置市・旧日吉町)
小松帯刀清廉の墓がある園林寺跡
2014年09月02日
園林寺(おんりんじ)は、山号は清浄山、建立は応永24(1417)年で開山は了厳玄明和尚、本尊は阿彌陀如来で文禄4(1595)年、禰寝重張が吉利に移封された時、小根占からこの地に移しました。
昔は藩中有数の寺であったといわれていますが、明治2(1869)年の廃仏毀釈でほとんどが失われ今は経塚や薬師如来像、歴代坊の墓などが点在しています。
禰寝氏は、24代清香の代の時、祖先とされる平重盛が小松内大臣といわれていたことにちなんで、姓を小松に改めました。
園林寺跡の西端に小松家の墓があり、ここに初代清重以下の霊を集め祭る外、一七代重張以下歴代領主や奥方などの墓があり、中に明治維新の功臣29代小松帯刀清廉の墓もあります。
帯刀は幼名尚五郎といい喜入領主肝付兼善の第三子で、母は島津又左衛門久貫の娘です。28代清猷の妹と結婚して吉利の領主になりました。
藩の要職を務め、改革を行い西郷や大久保等の下級武士を重用しました。外交では朝廷や幕府、諸藩との交渉に活躍しました。薩長同盟や大政奉還でも重要な役割を果し、業績が認められ28歳で家老に33歳で城代家老に昇進しました。明治3(1870)年に36歳の時大阪で病死しました。
小松帯刀の墓は妻お近の墓と並んで建っています。また、その横には昭和天皇から賜った石灯籠、近くには幕末の横綱であった陣幕が奉納した石灯籠、側室の琴子(琴仙子)の墓があります。琴子は京都祇園の名妓とうたわれた女性で、29代帯刀の愛妾で、第二夫人となった人です。安養院証妙大姉、明治7(1874)年8月27日26歳で亡くなり、明治9(1876)年、正室のお近の計らいで大阪より改葬されました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.20
住所: 鹿児島県日置市日吉町吉利5004-3
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