杣山城(南越前町・旧南条町)
南朝の拠点となった国指定史跡・杣山城
2014年09月04日
杣山城は、中世の荘園である杣山庄に立地する山城です。
鎌倉時代から南北朝時代にかけて、瓜生一族の居城でした。
鎌倉時代末期、瓜生保の父・衡が越後の三島郡瓜生村からこの地に移り築城したといわれています。以来、金ヶ崎・鉢伏・木ノ芽峠・燧などの諸城とともに越前の玄関口となりました。
標高492mの山頂の2段の台地に本丸、二の丸、少し下の東西に御殿跡があります。
日野川眼下に北陸道を見下ろす交通の要衝で、南朝の拠点となりました。
延元元(1336)年、新田義貞が恒良・尊良両親王を金ヶ崎城に入ると、瓜生一族は金ヶ崎城を援護しました。「太平記」によれば、延元2(1337)年正月11日、金ヶ崎城を救うため出兵した瓜生保は、敦賀市樫曲付近で戦死したといわれています。
その後新田義貞が居城しましたが、「得江頼員軍忠状」によれば、暦応元(1341)年6月25日夜、杣山城が落城していています。
その後、足利(斯波)高経が在城しましたが、貞治6(1367)年7月、高経は杣山城で病没しました。ついで斯波氏の家老で越前国守護代を歴任した甲斐氏が拠って朝倉氏と対峙しましたが、文明6(1474)年正月日野川の合戦に敗れ落城しました。
朝倉氏の時代には、その家臣・河合安芸守宗清が在城しましたが、天正元(1573)年、織田信長の北陸攻めにより廃城となりました。その後、天正2(1574)年には一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です。
昭和9(1934)年と昭和54(1979)年に国史跡に指定されています。
Photo SONY NEX-7
H26.7.26
住所: 福井県南条郡南越前町社谷
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