城井谷合戦で戦死した毛利の将・勝間田彦六左衛門重晴の碑
2014年09月16日
天正15(1587)年10月、第一次城井谷合戦で、黒田勢は寒田攻めを開始しましたが、城井谷からではなく、東側の谷の入口、広幡城を攻略し、9日、黒田長政は宇都宮鎮房と岩丸山上で戦いました。尾根上が小山田城になります。
長政が生涯ただ一度の敗戦を喫したと峯尾(みのう)合戦がこれで、一軍の将、大野小弁正重は塩田内記により討ち取られましたが、危機を脱し馬ヶ岳城に逃れ去りました。
その間に、毛利の援将、備前国下津井城主勝間田彦六左衛門重晴の率いる二軍は、敗戦撤退に備えるため、岩丸谷と小山田谷を結ぶ「市道」という山路を抵抗線とし、食い止めようとしましたが、彼らの頭上を飛躍してくるように疾駆してくる宇都宮勢を防ぐことは、土地不案内で複雑きわまる山塊の間をうねる馬の背のような尾根道では、指揮系統もままならず、四分五裂の状態のまま勝間田彦六左衛門の二軍もまた潰滅しました。
彦六左衛門重晴は、いつしか乱戦のうちに部下を失い、とある岩陰に冑を脱いで手傷の身を休めていましたが、落武者狩りに市道へさしかかった岩丸村の郷士引地茂左衛門幕下に見つけられました。
「情あれば吾を助けよ、もし危機に至らば首級を挙げて手柄にせよ」と名乗りをあげる彦六左衛門重晴を、引地茂左衛門は哀れと思い、しばし思索していましたが、その時、宇都宮軍の猛将新貝荒五郎秀之が残敵掃討に通りかかりました。茂左衛門は心ならずも、今はこれまでと、野太刀をもって彦六左衛門の肩口に切りつけ、家人の1人は、椿の棒をもって眉間を打ちすえました。その叫び声を聞き、駆けつけた新貝荒五郎によって、首級を挙げられました。
その他、800余りの首を黒岩越(櫟原)にかけ連ね、今も首塚として伝えられています。
勝間田彦六左衛門重晴は、46歳で岩丸村市道において戦死しましたが、碑は慶応元(1865)年10月、小倉篠崎藩、子孫勝間田彦左衛門重信が建立しました。
(現地説明板などより)
西側の溜池付近に説明板があり、そこから歩いて行きます。
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.9.13
住所: 福岡県築上郡築上町岩丸