城井谷合戦で黒田長政の身代わりになり戦死した大野小弁正重の碑
2014年09月16日
天正15(1587)年丁亥6月7日、豊臣秀吉が九州を平定し、筥崎八幡宮仮殿において諸将の国割を行いました。企救、田川の二郡を毛利勝信に、京都、仲津、築城、上毛、下毛、宇佐の六郡12万5千石を黒田官兵衛孝高に与えました。
このため、豊前の雄宇都宮(城井)鎮房は領国を失い、毛利勝信の領国、田川郡赤郷柿原に仮寓していましたが、10月2日赤郷を出発し、城井郷に戻りました。直ちに大平城、溝口館を奪還、一族を挙げて反黒田の旗を掲げました。
黒田長政は、上毛一揆を制圧中でしたが、10月8日毛利輝元の将、勝間田彦六左衛門と歩騎3千を率いて、岩丸山の突端広幡城を攻略し、陣を張り翌9日、全軍一斉に大平城、溝口館を目指し行動を起こしました。
この地は大小の尾根で、大谷小谷となり、人馬も歩行困難で攻める方も守る方も大変な所です。
静まりかえって黒田勢をやりすごしましたが、やがて宇都宮の伏兵は四方より数百旒の旗指物を中天に翻し、鬨の声とともに鉄砲隊は黒田勢をめがけて撃ちまくりました。不意を突かれた黒田勢、長政已に危うくなり、先陣の大将大野小弁は手勢をまとめ敵中に突入し、宇都宮勢を食い止めました。
この間長政は死地を脱し馬ヶ岳城に逃れました。宇都宮勢で豪勇無双の求菩提城代、塩田内記も小弁の猛攻に危うくなりました。宇都宮の猛将、渡辺与十郎が大野小弁に打ちかかりました。さすがの小弁も力尽きて、猩々緋の陣羽織を朱に染め白岩に戦死しました。18歳でした。この地を「小弁殿」と云います。
この戦いを岩丸谷の里人は、峯尾合戦、或いは黒岩合戦とも云います。この時860余の首級を挙げたと云われています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.9.13
住所: 福岡県築上郡築上町岩丸