郡長正の墓(みやこ町・旧豊津町)
会津藩家老萱野権兵衛長修の次男・郡長正の墓
2014年09月19日
郡長正の墓は、甲塚墓地にあります。
郡長正は、会津藩の家老萱野権兵衛長修の次男として生まれました。明治元(1868)年の会津戦争の敗北により、会津藩28万石は、青森県下北半島の斗南藩に移されました。長正の父長修は責任をとって自刃、そのため萱野家は断絶し遺族は「郡」の姓を名乗ることとなりました。
藩の再興を目指した斗南藩は、長正ほか六名の若者を同じ佐幕派として官軍と戦った小笠原藩の藩校育徳館(現在の県立豊津高校)に留学させました。留学生たちは熱心に勉強に励みましたが、その中でも長正は文武にわたって特に優れていたといわれます。明治4(1871)年5月1日、長正は育徳館寮南の一室で切腹し、16年の短い生涯を閉じることとなります。一説によると、ある時彼が故郷にあてた手紙の中に寮の食事に関することが書き添えてあり、それがたまたま他の生徒の目にふれて問題になりました。ついには会津武士の精神をなじられるまでになり、長正はその名誉を守るため切腹に及んだとも言われています。
この墓は、誇り高く若い魂を抱き、遠く三百里離れた故郷会津へ正面を向けて立っています。
昭和31(1956)年10月には、会津鶴ヶ城茶室の庭石と、萱野家(郡長正の実家)の墓石の一部が「郡長正ゆかりの石」として豊津高校(現育徳館高校)に寄贈されました。これをきっかけに豊津と会津は自治体レベル、あるいは郷土史会など民間レベルでの相互交流を続けてきました。会津の方々の郡長正への思いは強く、彼を慕い、個人あるいは団体で会津から豊津まで墓参に訪れる方は今でも後を絶ちません。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.9.13
住所: 福岡県京都郡みやこ町豊津
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