名護屋城・九鬼嘉隆陣跡(唐津市・旧鎮西町)
九鬼水軍を率いて参陣した九鬼嘉隆陣跡
2014年09月29日
九鬼嘉隆は、志摩国志摩に生まれ、織田信長に仕えるようになりました。伊勢長島の一向一揆、石山本願寺の戦いでは九鬼水軍を使って活躍しています。
摂津木津川口の海戦では、毛利水軍と鉄甲船(船体に鉄板を貼った船)を駆使して戦いました。その後、志摩・鳥羽3万5千石の領地を給わっています。
文禄・慶長の役では、水軍の中心として軍役15,000人で名護屋に参陣しています。九鬼水軍は大安宅船「日本丸」以下50船余りの船団で、朝鮮半島に渡海し、脇坂安治や藤堂高虎らと共に兵員や兵糧の輸送を警護しています。
朝鮮半島の戦いでは安骨浦(アンコルボ)海戦で、朝鮮国水軍の李舜臣と戦闘し、その際「日本丸」の帆柱が折れる被害を被りましたが、かろうじて攻撃を凌いでいます。また、熊川(ウンチョン)沖でも李舜臣の水軍と戦っています。
なお、九鬼嘉隆は、慶長2(1597)年に家督を九鬼守隆に譲り、慶長の役には出陣しませんでした。
陣跡は、波戸岬地区の中央に位置し、水軍の将の陣にしては内陸部にあります。現在の国道によって陣跡は分断されていますが、標高33.4mの丘陵上に曲輪と推定される平坦部や切岸等が残っており、谷部にも小規模な曲輪がみられます。周辺には陣跡内に敷かれていたと思われる玉石がみられ、また、西側の畑の中には、旗を掲げた台石と伝えられる旗竿石が残っており、当時の姿を窺い知ることができます。
(現地説明板より)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.9.14
住所: 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
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