名護屋城・前田利家陣跡(唐津市・旧鎮西町)
規模の大きさや立派さは陣屋の中でも群を抜いている前田利家陣跡
2014年09月29日

前田利家の陣跡は名護屋城の南方約300mに位置し、標高79mの頂上部を含む広さ10万㎡に及ぶ最大級の大きさを誇ります。陣屋は山上の曲輪群と山裾の居館部分の曲輪(「館部」)に分かれており、居館部分は高さ6mの石垣からなる内桝形の虎口を入口としています。
平成12(2000)年〜平成18(2006)年にかけて発掘調査が実施され、御殿の一部と思われる平面L字形の大型掘立柱建物跡や蔵跡、井戸跡など居住空間に伴う遺構のほか、蹲踞(つくばい)台や雪隠跡、直径20m以上の庭の池の跡など、茶の湯の「数寄」空間に関連する遺構が発見され、格式のある利家の居館の様子が明らかとなりました。
前田陣の規模の大きさや立派さは陣屋の中でも群を抜いており、石垣に矢で割った割石を多用する点でも先進的な造りです。利家は徳川家康と共に、文禄2(1593)年5月に名護屋を訪れた明の使節の接待役を務めており、豊臣政権の外交使節としての格式の高さも現れているものと考えられます。
前田利家は天正20(1592)年3月16日、京都を出発し名護屋に向かい、4月中旬頃には到着したものと考えられます。
軍役は8千人とも1万人とも言われており、着陣当初は名護屋城の北方、名護屋湾の東岸に陣所を構えたとされています。到着してほどない5月5日には飲料水の確保をめぐって徳川の兵といさかいを起こし、周囲の大名を巻き込んでの騒動となっています。伊達政宗の仲裁により両者とも名護屋城近隣に陣所を替えることで決着したと伝えられています。
同年6月以降、明が朝鮮救援のために出撃してくると、当時、政局のナンバー2であった利家にも、9月7日付で秀吉の名代として近日中に渡海するようにとの命令が下っています。しかし、明軍の平壌奪回の失敗に伴う撤退や、和睦(停戦)に向けての協議開始により、9月21日には渡海の延期が伝えられています。さらに翌文禄2(1593)年3月にも利家に渡海するよう命令が下ったようですが、3月下旬に戦況は急速に変化し、和睦交渉が始まったため、利家は渡海することはありませんでした。
文禄2(1593)年5月15日、明の講和使節団が名護屋に到着し、謝用梓を徳川家康が、徐一貫を前田利家が接待し、21日まで滞在しています。なお、その際に武威を誇示する武者揃を行うため、槍柄に貼る金箔、銀箔を発注した事を記す文書が残されています。利家がいつまで名護屋に在陣していたのかははっきり分かりませんが、同年8月中旬に秀吉が嫡子秀頼の誕生に伴い大坂へ帰ったのに続き、8月後半に名護屋を出発したものと考えられます。
なお、博多の豪商神谷宗湛の「宗湛日記」では、天正20(1592)年11月5日のこととして、利家が秀吉を陣屋に招いていたことが記されており、またこれに対し秀吉は、露地や数寄の出来栄えを褒めたたえる礼状を送っています。
令和7(2025)年、陣跡付近の調査で堀状の遺構が発見されました。幅約20m、長さ約400m、深さ約5mにも及び姫路城と同程度の規模の幅の堀だそうです。堀を通る珍しい「桝形土橋」とみられる空間も確認されました。
(現地説明板などより)
H26.9.14
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R7.11.23(写真差し替え)
住所: 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
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