岩屋城(津山市〔旧久米町〕)
曲輪や堀切、連続して設けられた畝城竪堀群などが残る美作を代表する山城跡・岩屋城
2014年12月10日

岩屋城は、嘉吉元(1441)年、山名教清が赤松満祐討伐(嘉吉の変)の論功行賞により、美作国の守護に任ぜられた際に築城されたといわれています。
その後、応仁元(1467)年の応仁の乱の勃発に伴い、山名政清(教清の子)が上洛した虚に乗じた播磨の赤松政則によって落城し、さらに文明5(1473)年政則が美作国の守護になったことから、岩屋城には武将の大河原治久が在城しました。
永正17(1520)年春、赤松氏の武将であった備前の浦上村宗が謀反し岩屋城を奪取、武将の中村則久を岩屋城に置きました。これに対し、赤松政村(政則の子)は、同年4月武将小寺範職・大河原を将として半年に及び城を囲んだものの落城せず、赤松氏の支配は終わるところとなりました。
このことから24年後の天文13(1544)年、出雲尼子氏の美作進出に伴い、岩屋城においても接収戦が行われ、城主中村則治(則久の子)は尼子氏に従属しました。
しかしながら、永禄11(1568)年頃、中村則治は芦田正家に殺害され、芦田正家は浦上氏に代わって勢力を伸ばしていた宇喜多氏の傘下に投じましたが、5年後の天正元(1573)年には宇喜多直家の宿将である浜口家職が岩屋城の城主となるに至りました。
その後しばらくは比較的平穏でしたが、天正7(1579)年以降、宇喜多氏が毛利氏を離れ、織田氏に属したことから再び美作の諸城は風雲急を告げるところとなり、天正9(1581)年毛利氏配下の中村頼宗(苫西郡山城村葛下城主)や大原主計介(苫西郡養野村西浦城主)らにより岩屋城は攻略され、中村頼宗が城主となり再び毛利氏の勢力下となりました。
織田氏と毛利氏の攻防は、天正10(1582)年備中高松城の開城により終了しましたが、領土境を備中の高梁川とすることについて美作の毛利方の諸勢力はこれに服さなかったため、宇喜多氏の武力接収戦が武将花房職秀を将として行われました。この接収戦は長期にわたり決戦の機会に恵まれず、当時備後の鞆にいた足利義昭の調停により戦闘は収束しました。
これ以降、宇喜多氏に属することとなった岩屋城には、宇喜多氏の宿将長船越中守貞親が入城しました。しかしながら、6年後の天正18(1590)年8月野火により消失し廃城となったと伝えられています。
(現地説明板などより)
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第35回「さらば父よ!」で官兵衛、蜂須賀小六、安国寺恵瓊が羽柴秀吉と毛利氏の領地分割交渉にのシーンで、秀吉領となった境目の毛利氏方の地侍が抵抗するシーンで登場しました。
岩屋山(標高483m)の山頂を中心に、東西約600m、南北約700mに及ぶ規模で、現在も曲輪や堀切、連続して設けられた畝城竪堀群などが残されており、美作地域を代表する山城跡です。周囲の尾根上には、岩屋城攻めに際して宇喜多軍が築いたとされる小規模な陣城跡や土塁などが残っています。
岡山県の指定史跡となっています。
Photo SONY NEX-7
H26.12.6
住所: 岡山県津山市中北上
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